ほぼ足りてまだ欲 その先

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小平尚道

<記者の目>戦後70年夏 安倍首相談話=岸俊光(論説室)2015年8月18日 毎日新聞
戦後責任考える一歩に
 戦後70年の夏、私は社説を書く論説室の仕事を離れて、連載「『償い』という問い」に打ち込んだ。アジア女性基金の検証を通じ、「慰安婦」問題を考え直す試みだった。念頭にあった一つは、歴史と向き合う政治指導者の言葉である。そのありようを教えてくれたのが米国生まれの神学者、小平(こだいら)尚道さんであった。
 14日、安倍晋三首相の戦後70年談話が発表された。小平さんが残したメッセージから談話の意味を考えてみたい。
 10年ほど前、日曜の書評欄を担当していた私は復刊された1冊の本を譲り受けた。
 日米開戦の陰で米国に住む日系人12万人が大統領令で立ち退きを命じられ、収容所に送られた。第11971号。「アメリ強制収容所」は、敵性外国人番号で呼ばれた、その苦しい体験を小平さんがつづったものだった。
 千葉の館山に住む小平さんを訪ねたのは、2005年8月である。「今週の本棚」に「あの戦争から60年」という特集を組み、小平さんの本を紹介した。約3カ月後、小平さんは92歳で亡くなった。
 折にふれ、手紙をくださる妻の史子さん(67)から、小平さんが残した強制収容にまつわる資料展を開きたいと相談を受けたのが今年春のこと。東京・銀座の書店、教文館に会場を提供してもらい、7月に2週間の展覧会を開くことがとんとん拍子に決まった。
被害者の心救う日米首脳の言葉
 史子さんから意外な話を耳にしたのは、収容所生活を描いたスケッチを中心とする展示の打ち合わせをしていた時だった。小平さんがブッシュ大統領(父)から送られた謝罪文を金庫にしまい、大切にしていたというのである。
 小平さんは、収容所の日系人に志願兵を募る米軍のご都合主義を鋭く批判した知識人だった。その小平さんに届いた言葉とは何なのか。大統領の手紙にこんな一節がある。
 <過去の過ちを完全に正すことはできません。しかし、私たちははっきりと正義の立場に立った上で、第二次大戦中に重大な不正義が日系米国人に対して行われたことを認めることはできます>
 女性基金も、大統領の謝罪文を参考に次のような首相のおわびの手紙を作成した。
 <いわゆる従軍慰安婦として数多(あまた)の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます>
 基金の元職員が手紙を受け取った被害者の様子を証言している。「はじめ手紙の持つメッセージがどこまで伝わるか心配しました。でもそれは杞憂(きゆう)でした。こんな日が来るとは思わなかった、と手紙を胸に抱きしめて泣いて。なぜ泣いたのか。(彼女らにとって、日本から)悪かったのはこちらです、申し訳なかったと言われるのは、思いもよらない出来事だったのです」
 形式的にも思える政治指導者の言葉が心に響いたのは、事実を認めることで当事者が自分を肯定できる力を持てたからではなかったか。
植民統治の反省、先導する姿勢を
 目下のところ安倍首相談話についての国内外の反応は割れている。「侵略」の文言は使ったものの焦点がぼけたという批判がある。痛切な反省や歴代内閣の談話を引き継ぐ内容を歓迎する声がある。
 私は、世界を先導し、植民統治を反省する姿勢がほしかったと思う。特筆すべきは、「慰安婦」を意識して戦時下で女性の尊厳や名誉を傷つけたことにふれるなど、多様な被害者に意を用いたことだろう。首相談話にあらゆる問題を委ねるのには無理があり、今後の行動が問われている。
 1955年から10年おきに毎日新聞終戦日社説などを読んで気づいたことがある。
 日本人に自信と希望を持てと訴えた戦後10年。馬車馬のように前進した日々を反省して考えることの意味を説いた1965年の戦後20年。世代交代を念頭に第二の国造りを掲げた1975年の戦後30年。他者の痛みに言及したのは1985年の戦後40年から。侵略と植民地支配を明示した首相談話は戦後50年の1995年に初めて出された。
 そして今日、平和と繁栄の恩恵を受けてきた戦後生まれの世代こそ、なすべきことがあるのではないだろうか。
 過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任がある。そう述べた70年談話は、条約などで解決済みとされてきた「戦後責任」を政府だけでなく国民が考える一歩になり得る。
 小平尚道スケッチ資料展には約700人が訪れ、歴史の暗部に思いを巡らせた。米国は日系人収容を命じた2月19日を「想起の日」に定めている。日本もそれにならい、アジアは許していないことをもっと真摯(しんし)に考えなければいけない−−。小平さんの思いを胸に刻みたい。

 1937年、日本神学校(現・東京神学大)を卒業し、戦後は東京の自由が丘教会で牧師を務めたほか、東京神学大、立教大、玉川大に教授として勤務