ほぼ足りてまだ欲 その先

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五代目

 かつて「芝浜」のと呼ばれた噺家がいた。三代目桂三木助は1902年の生まれで1961年に他界している。三木助が死んだ時、私は中学生で、大田区立大森第三中学に在籍していたが、もうすでに三遊亭金馬が好きで、ラジオを録音したりしていたから、三木助の芝浜をラジオで聞いた記憶がある。安藤鶴夫の手になる「三木助歳時記」を読むと、もうずいぶん昔の話だなぁという気がしないでもないが、自分に置き換えてみると、それほど昔のことじゃない。たかだか60年にもならない昔だ。
 で、三代目の息子である盛夫が父親の友人で名前を貰った柳家小さんのところに入門したのが1977年で、26人抜きの真打ち昇進と同時に四代目を襲名したのは1985年。弱冠28歳だ。とても才能豊かで、器用で、粋で、さぞかし持てただろうと思われる洒脱を絵に描いたような噺家で、志ん朝、小朝、に連なるかというくらいだった。実は、御曹司の息子であるだけじゃなくて、師匠は人間国宝になるような落語界の重鎮で、父親の親友だから、やりたい放題だった。甘やかされて育った典型みたいな噺家だけれど、こいつはどこまで大きくなるだろうかと期待させた。
 しかし、世の中甘くない。結婚して籍を入れる前に新婚旅行から帰るなりそのまま別れちまって話題になったりした。1990年代後半に入ってからは、大きなイベントをやったりしたけれど、そのうち、段々やることがおかしくなってきて、今度はそっちの噂が広まるようになった。胃潰瘍になって手術してから、なんだか顔色も悪くなって、本人はこれからだといっていたけれど、どんどん、鬱症状を呈するようになっていったようだ。そんな時期に、銀座の末広の上で「爛漫寄席」の公開録音で聞いたことがあるが、顔色は悪いものの、さすがの話だった記憶があるが、演目がなんだったのか、覚えていない。
 そして、2001年1月3日、彼は自宅で首を吊った。最初に発見したのは三代目三木助の妻で、四代目のおふくろである小林仲子である。そしてその横にいたのは、三代目の娘茂子の息子、16歳だった小林康浩、後の五代目三木助だ。康浩は大学を中退して2003年に十一代目金原亭馬生の三人目の弟子として入門した。直後に木挽町寄席という会で初めて駒春といった前座を見た。よれた感じの兄ちゃんで、話には聞いていたけれど、これがあの三木助の甥っ子かい、と思った。談志が稽古を付けたといわれている。2006年の秋に、二つ目に昇進して、三木男を名乗った。随分早い昇進で、意外だと思った。二つ目になってからはとても普通の二つ目だったら出来ないようなホールでの独演会なんぞを開いたりして、さすがに御曹司ってのは扱いが違うんだなぁと思ったが、それにしても実力を遙かに凌駕したイベント目白押しで、どうなるんだろうと思っていた。
 2017年秋に真打ちに昇進して五代目桂三木助となった。毎年暮れに上野鈴本で開かれる十一代目金原亭馬生の独演会には必ず一門のひとりとして、高座に上がる。そんな時にしか聞いていないが、2003年の会で見たあのことは思えない口調の真打ちになっている。三代目を良く知る人にいわせると、猫背具合なんぞ三代目にそっくりらしい。しかし、彼の噺はせわしなくっていけない。そりゃまだ三十代半ばだ、風格なんぞ出るわけがない。まだあと十年は修行だと思っている方が良いだろうけれど、すると私は彼の完成形を見ることはかなわないのかも知れない。
 2017年の「文藝春秋」の11月号に、三代目三木助の妻、小林仲子が「五代目襲名桂三木助、夫・息子・孫三代を語る」を語っている。取材・構成渡邊寧久。三代目の女房がまだ元気なのか!と普通だったら驚くが、仲子は三代目より25歳も歳下で、踊りの弟子だった。だから2017年で丁度90歳くらいだったのではないだろうか。私は五代目を二つ目の時から独演会させたりして、これは多分おふくろ、茂子の盲目愛じゃないかと思い込んでいたんだけれど、多分、おばあちゃんの孫愛だったんだろう。師匠の馬生も、おばあちゃんが元気なうちにといっていたんだそうだ。
 十一代目金原亭馬生の弟子にはもうひとり大御所の絡みがいて、それが十代目金原亭馬生の孫。今年から二つ目になった金原亭小駒だ。彼は子どもの頃からジャリタレをやっていたそうだから、入門の頃から全く屈託がない。お笑い業界人そのものというタレントの持ち主で、すぐにも売れっ子になりそうだ。こいつが来ちゃった以上、十二代目の馬生の襲名は彼に決まったようなもので、馬治や馬玉、はたまた馬久、馬太郎は雑音に惑わされることなく、精進して貰いたい。近頃馬治の出来が頗る良い。