ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

残り三ヶ月

 ラグビーはどこの会場も超満員で、日本にこんなにラグビーファンがいたのかと、驚くばかり。日本代表チームは「One Team」と云うことを云っているけれど、良くラグビーでは「One for All、All for One」ということをいわれている。この言葉は大変に面白い言葉で、概ね多くの場合は間違って使われていると思っている。ひとりは全体のために犠牲になり、全体はひとりひとりの犠牲の上に成り立つ」だと解釈している人が大半じゃないだろうか。少なくとも私にこの言葉を提示した人のひとりはそんな意味で云っていた。だから、私は反発した。企業組織ではこれではすぐれたシステム、あるいは商品は生まれてこない。この言葉は役所のフロントのような、普遍的な項目を普遍的に運営する場合には当てはまるかも知れない。しかし、クリエイティブな状況では、むしろ成果を貶める。
 という言い訳をして、売れないことの理由にしていたのかなぁ。

 ネット上で読んだんだが、人間が死を迎え、心臓が停止して血液を送り出さなくなっても、先の方の血液も瞬時に消滅するわけではないので、脳細胞は徐々に停止していくという。だから、死の直後、周囲の会話を聞き取れていても、別段おかしくはない。一旦心臓が停止して後、奇跡的に死の淵からよみがえってきた人たちの話の中で、周囲の状況がわかっていたという証言があるのはそういうことだというのだ。どういう意味があるかといったら、いくら嫌いな奴だったとしても、心臓が停止した直後に「ざまぁみろ」なんて云わない方が良いってことだな。ちょっと意味を取り違えているかも知れないけれど。

 1975年の5月に静岡の工場から東京の本社に転勤になった。それまでは会社へ歩いて10分の社宅から歩いて通っていた。転勤初日に、横浜の実家から東京駅まで出勤するのに、あまりの混雑ぶりに恐れを抱き、すぐの電車に乗れず、多分次の東海道線に意を決して無理矢理乗り込んだ。さすがにこれに耐えられるような気がしなかったので、事務所から地下鉄を乗り継いで30分で帰ることができるところに狭いアパートを借りることにした。しかし、この種の通勤電車が今ではゆっくりと乗ってこられるという話を聞かないんだけれど、この国は何かが良くなるということはないみたいだよねぇ。もうあれから45年が経とうとしているっていうのになぁ。

 私は本当は食に関しては鈍いんだと思う。多分味覚についてほとんど語るべきものを持っていないんじゃないかと思う。だから逆に日本から離れて他国にいても、日本食がなくてもあまり困ることはない。一切日本食を食べなくても3週間も4週間もやっていける。ま、できることならば世界中どこへ行っても必ずある中華飯があれば良い。それがなければそれでも良い。フリーズドドライのみそ汁やら、お粥やらを持っていく人もいるけれど、私はそれも持たない。たまさか現地のスーパーでカップヌードルを買って食べたこともあるけれど、必ず美味しくない。美味しい日本食を食べようとしたら、普通の値段では食べられないんだから、敢えてそんなものとか、全くの偽物と云って良いようなローカライズされた日本食なんてわざわざ食いたくない。本当のことを云うと、美味しいパンと果物と美味しい珈琲があれば、概ねまかなえるのだ。「美味しい」というところが味噌なんだけれどね。