ほぼ足りてまだ欲 その先

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f:id:nsw2072:20200527005051j:plain:w360:left 私が卒業した高校は都立高校だというのに、信濃の追分と、千葉の富津に寮というものを持っていた。少なくとも追分の方は今でもそのままある。富津の方はどうなったのか知らないが、ごく普通の民家のようなものだった記憶だ。追分にはここのところ毎年一度は前を通るので確認をしている。一年生の夏に、クラスごとに2泊くらいで出かけた。この写真は私たちの一年N組。しかし、全員が参加しているわけでは無い。これでは多分2/3位の出席率ではないだろうか。担任の数学の片桐先生がいるのはわかるけれど、どうして物理の池谷がいるんだろう。次の年、池谷は私に「聴く気がないなら理科室から出て行け」といったので、「あぁ、そうですか」と出ていき、自分の教室で早弁をしてひと騒動持ち上がったことがある。彼は私に赤点をつけた。
 東京からどうやってあそこまで行ったのか、よく覚えていない。信濃追分の駅から歩いたのか。歩いたとすれば2.6kmばかり上りの道だ。追分の油屋の横をまっすぐ登って千m道路に出る脇にある。あの辺には様々な学校の寮が集中してある。多分流行ったのか。近くには実践、東京女子大、宝仙学園、青学高なんてのが寮を持っていたけれど、今はどうなっているんだろう。すぐ裏から石尊山に登るのが慣しだったらしい。
 富津の寮には一度しか行ったことがない。それも卒業した年の夏だったから、もう半世紀以上前のことだ。どういう発想だったのか覚えていないけれど、男子4−5人と女子2−3人だったような気がする。富津には何処かから船に乗って行った。多分2泊くらいしたような気がする。その2泊目だったかに、夜、海岸に行って歩いた。多分ばか話をしながら歩いた。突然誰かがふと後ろを見て、叫んだ!ぎくっとして振り返ると、なんと自分たちの足跡が青白く光って残っている。それが蛍光虫を見た初めての経験だった。きれいだった。気がつくと崩れる波も光っていた。二度目にそれを見たのは、それから6-7年後のことで、試運転で伊豆半島と大島の間を航行中の船の上から航跡が光るのを見たときだった。大島の三原山の噴火口の照り返しと蛍光虫の青白い航跡は幻想的だった。
 良い時代だったんだろうな。