ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

ガーデン山

 大晦日の夜、文化放送が大変珍しく、アーサー・ビナード「封印された真実」という番組を放送した。これはシリーズ第二弾だったらしい。フジ産経グループの文化放送らしくない内容だった。私はradikoのタイムフリーで辛うじて聴くことができた。一週間くらいは後から聴ければ良いのに、正月2日の26時までと限定されていた。
 なにが封印されたのかと思ったら、ただ忘れられたことの意味だった。始まりは平和島競艇場(人類皆兄弟の大きな看板が首都高の横羽線から見える)の観客席のあたりに、昔大森の俘虜収容所があったというところからだった。そういえば、戦争中のことを調べたりすると、必ず出てくるのがこの大森俘虜収容所で、大森海岸の駅の傍にでもあったのか、鈴ヶ森にでもあったのかと思っていたけれど、そんなところにあったのかと、初めて知った。ということは、多分戦後すぐに開設された占領軍用の慰安所が造られたのもこの辺だろうか。あ、いや、あれは元の料亭だったというから、大森海岸の駅の方か。
 POW研究会の笹本妙子さんが登場して、保土ケ谷の英連邦軍人墓地の話になった。以前からこの墓地の存在はあちこちで聞いているけれど、場所をgoogle mapで確認したのは初めてだ。どうやら、私たちのお仲人をして下さった方のお宅へ行く道すがら良くその傍を通っていたことに気がついた。ここにはエリザベス女王もダイアナ妃も来られたことがあるのだそうだ。英国は昔から自軍の犠牲者をなくなったその地に葬ることになっているのだそうで、英連邦というくらいで、英、豪、加、印、パキスタン系も含まれているそうだ。一度は行ってみたい気がする。
 驚いたのは、神奈川区の三ツ沢にある通称「ガーデン山」のことだった。戦争中、ここにやっぱり俘虜収容所があって、近所に住んでいた国民学校の小学生は毎朝俘虜たちが歩いて労働に向かう様を目の当たりにしていたというのだ。当時は小学生といえど、もう皇国の士であった彼はザワザワと歩いて行く俘虜たちに向かって「ばかっ!」と叫んだら、監視業務に就いていた日本の軍人がやってきて、「皇国の士たるものがその様な言動をとっては恥ずかしいぞ」と諫められたという。日本軍の兵士は悪いばかりじゃなかったんだと語った。
 で、そのガーデン山なんだけれど、私たちは物心ついた頃から普通に、「ガーデン山」と呼んでいた。なんの疑問もなく。その辺り一帯には鬱蒼とした森もあったけれど、オヤジが勤めていた会社の社宅があった。下の方には平屋の簡単な木造の社宅が、およそ30軒ほど建っていて、その上に三棟の三階建てのコンクリのアパート社宅が建っていた。昭和20年代の終わり頃には建っていたような気がする。多分今考えると2DKくらいで、なんと風呂がなかった。風呂は松本中学校との境のあたりに、まるでちょっとした銭湯のようなものがあって、社宅の住民が利用するものだった。松本中学の校庭では夏になると、毎年野外映画会があって、昼からどこの人かわからないけれど、大きな白い膜を校庭に張って、そこへ映し出した。左幸子轟由起子が出ていた「女中ッ子」や、「にあんちゃん」「のんちゃん雲に乗る」なんてのはここで見たのではないかという気がする。
 そのうち、公団のコンクリートアパートが建ち、その後は高島屋の女子寮や、映画の東宝の独身寮なんてのが建ち、大手開発会社がマンションを建てた。
 松本中学の南側には鬱蒼とした森があって、なんでもその中にはいったものの話によると、中には池があったという。
 そもそもこの辺一帯は大震災後に築地から移り住んだ大澤幸次郎という証券取引で大儲けした人が買い取ったそうで、7萬坪もあったというんだから、松本中学も含めてこの山まるごとということだ。そこへ「横浜ガーデン」というものをこしらえ、市民には無料で一般公開されていたんだそうだ。
 下の橋は元はといえば鶴亀橋といったそうだけれど、それ以来ガーデン橋と呼ばれていたそうだけれど、そんな名前がついている橋だったとは思いもしなかった。あの橋を荒縄で縛った氷をぶら下げて社宅の陽ちゃんのうちへ上がっていったことは克明に覚えている。
 その横浜ガーデンはもちろん横浜大空襲で燃え落ちたそうで、つまり私の記憶はすっかりご破算で次に展開したガーデン山だったわけだ。松本商店街の茅島写真館の旦那もこの辺に家があったし、そうそう、もうすっかり年賀ハガキも来なくなったけれど、大学で同級生だった井上君もここに家があったはずだ。学生時代に芝居をやっていた彼は、卒業してから商社に勤めたはずだけれど、今はどうしているだろう。この山には子どもの頃、牧場があった記憶があるなぁ。今じゃ考えられない。
 今じゃ考えられないといえば、この辺はバスしか交通手段がなかった。今では地下鉄があるので、楽だろうけれど、当時はトロリーバス横浜駅へ出た。
 google mapで景色を見ると、全く変わってしまっていて、坂道だけしかわからない。