ほぼ足りてまだ欲 その先

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動物園

 子どもの頃、うちだって動物園に行ったことがある。まぁ、「だって」というのには注釈が必要か。オヤジの商売の関係で、必ず週末がオヤジの休日とは限らなかったからだ。
 私が生まれたのは横浜だったから、最も身近な動物園というと、野毛山動物園だった。当時も桜木町から歩いて行った。そこまではわかるのだけれど、多分最後に行ったのは小学生低学年だったのだろうから、それから半世紀以上経っていて、もうすっかり記憶から消えてしまっていて、坂道を歩いた記憶しか残っていない。
 野毛山動物園の一番の記憶は動物でいえば象さんで、生まれて初めて象さんを見た感動は揺るぎなく残っている。成長してから行った上野動物園の象さんの記憶はなんだかあんまり良いものではない。私にとっての象さんといったら野毛山動物園にとどめを刺す。
 野毛山動物園には当時、ロープで引き上げられる飛行機がぐるぐる回るという非常に単純な乗り物があった。メリーゴーラウンドの上下するだけの馬ですら怖くて、前後に揺れるだけの固い馬にしか乗ることができなかった私にとっては思いっきり頑張ったつもりだった。
 そして、野毛山動物園につながる坂は四角い石が扇上に並べられた坂道だった。あの坂道は戦争でやられなかったのだろうか。それとも私が連れて行って貰った頃、つまり1950年代中頃に、そこまで復旧できていたということなのだろうか。
 当時の桜木町周辺にはまだ駐留軍に接収された土地だらけで、板塀で囲まれていたのだけれど、その中は一体どうなっていたのだろうか。ところどころに中をのぞき見られる破れ目もあったのだろうけれど、なんの記憶にもなっていない。見てはならないものと思っていたのか、親が見ないように仕向けていたのか、あるいは見えなかったのか。
 横浜に暮らしていた子どもにとってのもう一つの動物園は、今は全くその痕跡も見いだせなくなってしまった多摩川園だ。動物園というよりは遊園地だったのだろう。私の記憶の中には猿山があった。いや、むしろ私自身の記憶というよりは誰かがとってくれた猿山の前に居並ぶ子どもたちの写真が保ってくれている記憶というべきか。
 その写真は当時暮らしていた社宅の子どもたちを何人かのお母さんたちがあたかも保育園の遠足かと今なら思えるような案配にして連れて行ってくれたものだ。うちのおふくろがいたのかどうかは記憶にないけれど、写真は残っている。当時、その社宅では大人たちが子どもたちのために様々な行事を開いたらしい。社宅の真ん中にあったテニスコートは名ばかりで、もうほとんど子どもたちの遊び広場だった。そこで社宅の子どもたちの運動会なんてものが開かれたことも、写真に残っている。
 多摩川園はその後、バブルの頃に超高級会員制テニスクラブになってしまって、私の記憶をものの見事に粉砕した。大人の事情って奴の前にガキのセンティメンタリズムは遙か彼方に飛び去ったのだ。
 今あの東横線の駅はただ単に「多摩川」という名前になっているけれど、そりゃいくら何でも安直に過ぎる命名だろう。多摩川ってのは上から下までながぁ〜いのだよ!