ほぼ足りてまだ欲 その先

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NHK 藤倉学園

 Eテレで大島の藤倉学園の話をやっていた。戦争末期になって大島には陸軍の陣地を築くから出ていけといわれて、探しあぐねた最後に清里清泉寮に30名の障害者の仮屋に貸してくれと立教学院にお願いしたんだそうだ。その時、立教学院はなんと、知的障害者の施設に貸すんだったら壊されちゃう可能性もあるから買ってくれと反応したんだと生き証人、現在の理事長で、創設者川田貞治郎の娘である川田仁子が証言した。
 恥ずかしい。まったく恥ずかしい。1944年の途中あたり、もう既にポール・ラッシュは1942年6月17日に横浜港を出港した浅間丸の日米交換船で帰国している(この時に交換船で日本へ帰ってきたのが鶴見俊輔)。
 立教学院はこの頃には既に米国聖公会の色をまったく失ってしまい、ファシズムに席巻されてしまっていた。軍事教練にやってきた軍人が学生たちに「お前たちのようなアメリカかぶれは」と表現していたという。
 大島にいたときには食べられていたのに、ようやく見つけた地では地元開拓民すらろくに食べることもできず、学園の子どもたちのうち10名がこの地で命を失ったそうだ。
 藤倉学園は藤倉電線(現・フジクラ)の創業者、藤倉善八の弟中内春吉と社会事業家であった川田貞治郎が始めた施設だという。