ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

日米交換船

 アジア太平洋戦争中、日米交換船が双方から抑留されていた人々を乗せてそれぞれの故郷へ帰っていったことは広く知られていて、日本人では、鶴見和子・俊輔も、野村吉三郎も寺崎英成夫妻も、多くの人がこれで帰国した。ポール・ラッシュもこの時の交換船で帰国している。
 私は交換船はこれだけだと思っていたのだけれど、お茶の水女子大学教育・研究成果コレクションTeaPotで公開されている小宮まゆみさんの「太平洋戦争下の「敵国人」抑留 : 日本国内に在住した英米系外国人の抑留について(研究)(こちら)」によれば1943年9月13日に73名の抑留者がこれで帰国の途についたのだそうで、青山学院の口ランド・ハーカ−、関東学院のウィリアム・アキスリングが含まれていた。たった73名というのは如何にも少ないが、フィリッピンのマニラ等に寄港して、拘留されていた米国人を乗せてインドのポルトガル領ゴアへ向かったのだそうだ。
 しかるに「交換船」というからにはこれに対応する日本人抑留者がいなくてはならないのだけれど、これは一体どうだったのだろうか。
 ウィッキペディアによると、アメリカからの交換船は、ウルグアイモンテビデオなどを経由し、中南米諸国に在住していた日本人1517名を乗せて交換地、ポルトガル領ゴア(インド)で乗り換えたそうだ。
 この辺は外務省外交史料館にかなり面白そうな資料がありそうだ。
 また、小宮まゆみさんのこの論文によると1945年2月にはドイツ系ユダヤ人の抑留が始まったと書いてある。