ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

成人式

f:id:nsw2072:20190114180944j:plain:w360:left 今日は成人の日で祝日。昔は1月15日と決まったものだったのが、いつの頃からか、この月曜日ということになって、土曜日が休みの場合は三連休になるということになったらしい。どうも未だにピンとこない。なんだって?まだ14日だぞ、といってしまう。


 こんな時代になってもまだ官製の成人式典というのに行く子もいるのかと思って、偶々散歩に出かけたときに、セレモニーが行われているはずの公会堂の前に行ってみたら、まさに終わったばかりだったらしく、公会堂前は車をシャットアウトしてあって、出てきた若者でごった返していた。それはそれでごった返しているんだけれど、カメラをかまえた爺さん婆さんが驚くほどたくさん来ている。この若者と爺さん婆さんの間に何か接点があるのかといったら、ほとんど口をきかないが、被写体として面白い連中にカメラをかまえている。一番受けるのが、派手な格好をした兄ちゃん連中と、子どもを連れた姉ちゃん連中である。どこの自治体のセレモニーにも、目立ちに来るという輩がいて、長ずるに及んで、後悔するらしい。


 こうしたセレモニーに出席しない連中は長ずるに及んでどう思うんだろう。私もそのうちのひとりで、地元のセレモニーに行かずに、高校の同級生連中と一緒に明治神宮へ行った記憶がある。何も考えずに、原宿へ行った。そして、お茶をして、うちへ帰ってきた。あれが明治神宮へ行った最初じゃないか。あのあと、一度行ったことがあるくらいで、それからもう数十年というもの足を踏み入れたことがない。あそこがどういう場所かというのをちゃんと知ったからだ。そういう意味では意義のある?(気がつかなかった時代を象徴するという意義のある)日だったかも知れない。

NFL

f:id:nsw2072:20190114180844j:plain:w300:left とうとう、両カンファレンスの決勝進出チームが決定。
AFCはKansas City Chiefs 対 New England Patriots。そしてNFCはNew Orleans Saints 対 Los Angles Ramsというわけで、結局は各カンファレンスとも、レギュラーシーズンが終わった時点での#1シード対#2シードだから、至極順当な結果だといっても良い。しかし、NFLポストシーズンといったら、番狂わせが常識、ってのもおかしいが、日常茶飯事で、「え〜っ!」と目を見張ることがしょっちゅうだという印象がとても強い。昨日、今朝の明け方から午前中にかけて4試合が生中継されたわけだけれど、どの試合も最初から最後まで見られなかった。なぜか?眠くなるからである。
 しょうがない、NHK BSのダイジェスト版をもう一回見るか、という結果になっちゃっていて、いったい何のために眠い目をこすって起きていたのか、意味がわからん。
 来週末もまた中途半端なテレビ観戦に終わりそうな気がする。
こうなったらAFCはもちろんKC Chiefsを応援!NFCは微妙だなぁ。どっちも久しぶりだから、勝たせてやりたい気持ちがあるものなぁ。

晩餐会

f:id:nsw2072:20190113221752j:plain:w300:left 息子の41回目の誕生日記念晩餐会が華々しくも、なじみの鰻屋で開催。といってもちょっとの燗酒を戴いて、肝焼きと鰻重を戴くという晩餐。三連休の中日だからか、街にはやたらと人が出ていて、驚くようだ。地方ナンバーの車が目につく。ちょっと酒が入っただけでよぼよぼ歩きになってしまう。
 市原悦子が亡くなったそうだ。82歳。天知総子も亡くなったそうだ。78歳。寒くなると年寄りは弱い。どう考えても自分もあと10年もないことを心にとめる。

やっぱり

 そうか、やっぱり碓氷峠は早くからあの部分だけ電化されていたんだな。
 子どもの頃は大阪から西は蒸気機関車が引っ張っていたような気がしていたんだけれど、調べると大阪-明石間が電化されたのは1934年ということになっている。しかし、西明石から姫路の間が電化されたのは1958年だとウィキペディアが書いているから、私の記憶は西明石から先のことだったのだろう。多分初めて急行瀬戸に乗って横浜から岡山まで行ったのは1954年だと思われる。そして1957年に母方の曾祖母が亡くなって、その葬式に両親と一緒に行った。なぜ三人姉弟なのに、私だけがついていったのか、それは今となってはわからない。
 母方の実家は岡山から吉備津線に乗って「吉備津」という駅で降りて、800mほど。その時、岡山の駅に到着したのはもう暗くなっていた。だからひょっとしたら急行瀬戸ではなかったかも知れない。もう吉備津線がなかったのか、岡山の駅からだったら10km程あるあいだをタクシーに乗った。真っ暗な田舎の道を走るうちに、そのタクシーの運転手が「あそこのどこのお宅へいかれるんですか?」と岡山弁で聞いた。母が「角の家です」というとその運転手が母に向かって「じゃ、先生じゃないですか!?」といった。母は父が招集されて北支へいっている間、実家に帰ってきていて、村役場から請われて小学校の臨時教師をやったことがあるのは知っていた。女子師範を卒業して教師の資格を持っていた。そのタクシーの運転手はその時の教え子のひとりだった。とても印象的な出来事だったので、今でも昨日のことのように想い出すことができる。
 そういえば、私が社会人になって赴任した街で夜駅から独身寮まで乗ったタクシーの運転手が小学校の同級生だということが判明したことがあった。私はその街の小学校を卒業していた。しかし、あの時、彼はどうして私だとわかったのだろうか。それとも私が運転手のカードを見て名前で思いだしたのだろうか。かすれかかった記憶では彼は「渡辺」という苗字だったような気がする。彼はギターリストを志していて、Gibsonフルアコを手に入れたくて、稼いでいるんだといっていた。その後、彼はどういう人生を歩んできただろう。

騒ぎすぎ

「米軍は射撃用レーダーで照射されるとただちに攻撃する」との説があるが、これはイラク上空で米軍機がイラクの対空ミサイル用のレーダーの照射を受けた際の話だ。米空軍には敵の防空網制圧を専門とする部隊があり、レーダー電波の発信源に向かうミサイルを付けて哨戒飛行をし、相手が照射するのを待ち構えて攻撃した。平時に公海で軍艦が出合うのとは全く状況が違う。(AERA 2019年1月21日号・田岡俊次

年寄り向けテレビ番組

 最近テレビで年寄り向けの番組がとても多いような気がしてきた。昨日も、昔はこういうことはどうだったのか番組があって、思わず見入ってしまったんだけれど、若い人たちが昔のことを知らないのは、当然といえば当然のことで、こんなことで、年寄りにおもねっているみたいで、なんだか、居心地は良くなかったよ。
 例えば、成田空港ができる前、海外へはどうやって行っていたのか?なんてことを街ゆく人たちに尋ねたりしてさ。答えた若い人が「船?」っていったってのを取り上げてあざ笑う、なんて趣向でね。
でも、おかげで昔のことをたくさん想い出すことができた。
 当時の羽田の国際線ターミナルには随分たくさんの想い出がある。平屋のようなターミナルだったけれど(実際は二階建て)、多分生まれて初めて入ったのは、小学生の時で、従兄の親戚のお爺さんがアメリカから帰ってくるのを迎えに行くついでに見物用の屋上に入ったんじゃないかと思う。ビートルズなんかが来日したときにファンがわんさかたかっていたあのバルコニーみたいなところだ。二回目は小六の時に、清水の小学校の日帰り修学旅行だった。
 実際に初めてあそこから飛行機に乗ったのは1970年8月のことで、JALDC-8だった。今は亡き幼友達が送りに来てくれたのを覚えている。なにしろ初めての飛行機、初めての外国行きだったから記憶は鮮明だ。正面にパタパタと表示が変わる案内板のところを入っていくと出国手続きだった。テレビの番組では手荷物検査があったといっていたんだけれど、その記憶はほとんどない。
 二度目は1972年12月でパスポートは一次パスポートだった。数年後、数字のパスポートをとったが転勤になって三度目はずっと先になった。
 その代わり、羽田の国際線ターミナルには仕事がらみで出迎えやら、見送りやらでしょっちゅうやってくることになった。日本語も英語もできないノルウェー人のお爺さんを迎えに来たら、全然出てこない。とうとう入管の方まで入っていって、その旨聞いたら「あぁ、あの爺さんだな、全然言葉が通じないんで、困ったんだけど、たった今出ていったよ」というので表に急いでまわった。しばらくしてキョロキョロしながら出てきたお爺さんを発見した。それでも言葉が通じなくて困った、なんてこともおかげで思いだした。
 船がハワイで故障して往生しているというので、部品を持ったノルウェー人を見送りに来たら、こいつがなんとパスポートを家においてきちゃって出国できず、この部品をもう一度持ち帰り、翌日出直してきた、なんてこともあったなぁ。
 当時の羽田はターミナルの前がドォ〜ンと駐車場で、この駐車場をなんで往復したことだろうか。
 1972年の旅行で知り合った米国人夫婦が、大阪で英語教師をしている娘に会いに来た帰りに羽田から帰国すると聞いて、ロビーで会えず、出国したと聞いて、有料で入ると、出国手続き済みの人たちのロビーが見えて、拘置所の接見室のように、穴の空いたアクリル板越しに話ができるところで、ようやく挨拶ができたことを思いだした。確かオキーフさんといって、オレゴンに住むという人だった。
 1979年12月にアメリカへ出かけたときは、もう成田空港から飛んだ。多分あれが初成田発だったのではないか。その時サッカーの奥寺を成田で見た記憶がある。同行した三人のうちのひとりにはご両親が見送りに来たことも覚えている。まだそんな時代だったのかなぁ。

賄賂

 確かに、ブラジルがオリンピック開催権をとって東京が負けたとき、帰ってきた、当時東京都知事だった石原慎太郎が、奴らのあの手にやられたんだ!といっていた。だから、東京がオリンピック開催国に指名されたときに、あぁ、あの手を使ったんだなと思った。そしてその直後にあの疑惑のある男の息子かなんかが、とんでもなく高価な腕時計を配ったという記事も読んだ。あの頃から既に疑惑は報じられていたわけだけれど、三権分立がとっくのとんまにないがしろにされている日本では、そのまま報じられることもなくなっていたわけだけれど、フェアネスを大事にされる環境では無視されてはいなかったということだったのね。
 もうギッタギタだねぇ。