ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

NFL

 いよいよ、ポストシーズンも煮詰まってきた。
土曜日にはこの二試合

  • Indianapolis Colts 対 Kansas City Chiefs
  • Dallas Cowboys 対 Los Angeles Rams

日曜日にこの二試合

  • Los Angeles Chargers 対 New England Patriots
  • Philadelphia Eagles 対 New Orleans Saints

そして来週20日(日曜日)にいよいよカンファレンス・ファイナルがあって、2月3日のAtlantaでのSuper Bowlになる。
 まぁ、多分あり得ないと思うけれど、AFCNFCもLos Angeles勢が勝ち上がったりしたら、それはそれで面白いような気がするけれど、誰もそんなことは思っちゃいないだろう。硬いところではやっぱりEagles対Patriotsなんかになっちゃったりするのかも知れないけれど、今シーズンについていえば、両方とも万全じゃないものなぁ。レギュラーシーズンで楽しませてくれたという点では、ChiefsやChargersができるだけ後まで残って欲しい気がする。派手で面白いからね。
 カンファレンスの#1シード同士になればChiefs 対 Saintsなんだけれど、私としてはこうなったら俄然Kansas City Chiefsを応援することになりそうだなぁ。

f:id:nsw2072:20190111215104j:plain:w300:left いったいいつからこんなことになってしまったのか、記憶にない。16年前にここに引っ越してきたときに、すでに本棚を4本ほど立てたのは記憶にあるから、そこからすでに5-6本の本棚が増えていることになる。廊下はもう既に片側の壁が本棚になっている。もう本棚が立てられないので、倉庫代わりの部屋に平積みになっている。
 拍車がかかったのは、やっぱり二度目の大学通いが始まった頃ではないかと思う。あの当時、読みたいと思った本が地元の図書館になくて、学校の図書館から借りだしていたのだけれど、一度に借り出せる本の数が極端に少なく、それも二週間ほどだったのではなかったか。最初に行った大学では借り出せる本の数は確か十冊だったのではなかったか。しかもあの大学の図書館は夜10時まで開いていた。その上全ての本が開架に所蔵されていて、誰もが実際の本を手にすることができた。ところが移った先の大学では古い本は軒並み閉架所蔵になっていて、書庫に入れるのは院生以上だった。だから院にあがったときは無茶苦茶に閉架に入り込んだ。
f:id:nsw2072:20190111215151j:plain:w240:right 縮刷で一冊まるごとコピーをしたこともある。当時は必死に読み込んでいたから、縮刷でも頑張ったが、今となっては読むのが辛い。当時、思い知ったのは、一度入手を諦めた本はその後めったに遭遇することはないということだった。専門書はすぐに絶版になり、古本の市場にも出てこない。学籍を持っていれば学校の図書館にアクセスできるけれど、無籍となった今となってはそれも望むべくもない。卒業した学校の図書館は卒業生の入館、閲覧は認めているが貸し出しは認めていない。あの学校は学生や卒業生を信じていない。何しろ卒業間際になると貸し出さなくなる。持っていかれることを怖れている。だから大学院に進学する直前の春休みに図書館から駆り出すことができなかった。バカみたいな話だ。
 思い切って蔵書を処分してしまえば相当にすっきりするだろう。しかし、二度と遭遇しない。それでももう人生の残りがないんだからそれで良いんだという考えもあるなぁ。
 まぁ、どう考えても病気である。

見解

定例会見でNHKの山内昌彦・編成局計画管理部長は「報道機関として自主的な編集判断に基づいて放送しておりますので、必要に応じてきちんと判断して対応しているという風に考えております」と説明。「番組内での政治家の発言についてNHKとしてお答えする立場にはございません。事実と異なるかどうかという他社の報道についてもNHKとしてコメントする立場にはございません」とも述べた。(朝日新聞2019年1月10日20時00分)

 例のNHK日曜討論」での珊瑚を移植したという首相発言に対するNHKの見解。彼らの「自主的な編集判断」というのがどういう判断なのか、という疑問に対してはなにも答えていない。本来的には公共放送たるNHKは「首相の見解はこうだったけれど事実としてはこうだ」というような報道がなくてはならないが、それは全くなされていない。これでは広報機関にすぎない。

会見

 政治家は良く会見に引っ張り出される。自ら会見に臨む人もいるけれど、どうも日本の政治家のそれを見ていると「引っ張り出され」ている。どういうことかというと、自分から国民に説明をして、説得しようというよりも、「会見をした」という事実を作るためにしている。アリバイ会見とでもいうべきなのかも知れない。
 会見をするということは説明をすることだから、そこに居合わせる人たちが持っている疑問、あるいは明らかにしたいことに対してすべからく答えなくちゃならない。
 そういう点で立派だと思うのはロシアのプーチンや昨日の韓国の大統領だ。そこへ来ているジャーナリストを制限しているのかも知れないけれど(そうだとしたらまたこれも問題だけれど)、プーチンの場合はロングランの会見をし、フリーハンドでそれに答えている。私は詳細を知らないから、ひょっとしたらしてはいけない質問があるのかも知れないけれど、報じられる限りにおいてはそこにいる記者たちが上げる手を指さして質問をさせて、それに対して答えている。
 昨日の韓国の大統領も指さして日本の記者がハングルで質問に立った。そしてそれに答えて「日本も謙虚になった方が良いと思う」といって日本報道が色めき立っている。しかし、映像を見る限り、事前のやりとりがあったわけではないように見える。そして彼は原稿を持っていなかった。
 翻って、日頃の日本の政治家の会見を思い浮かべてみると、まず、いわゆる各省庁に附属する、いわゆる「記者クラブ」所属以外のジャーナリストをすでに排除している。もう既にこの時点で、開かれていない。だからフリーハンドの質問というのは全くない。記者クラブ所属記者のフリーハンドの質問に対しても、まともに答えないし(東京新聞の望月記者に対する官房長官の応答を見たらわかる)、その種の記者が手を上げても、そもそもささない。まず、当番の社の記者が事前に打ち合わせた質問に対して答えて、その後にメンバー各社が質問をするのが日常だけれど、批判する質問をそもそもしないことになっている。そんなことをすると情報がもらえなくなってしまうからだ。
 かつて北海道県警が隠し金を作って日常的に裏で遣っていることを北海道新聞がすっぱ抜いたことがある。道警は道新を徹底的に排除にかかった。挙げ句に道新を追い詰めた。近いところでは森友学園問題を報じようとしたNHKの記者は社内で左遷されて退社した。
 こういうことが起きるから、クラブ記者は社を背負って情報源を保持するために、批判的質問をしない。
 わが首相が年頭会見をやった。(詳細は官邸ホームページに掲載されている。→こちら。なぜか唐突に三重県記者クラブ、幹事社の東海テレビの藤井記者が質問に立つ。これで官邸記者クラブに限定しているわけではないというポーズか。質問はたったの4人。フリーハンドの質問ではなくて、官邸が指名。)彼は質問に対して原稿を読んで答えた。準備されていたからこそ原稿ができていた。国会で「通告されていないから、答えない」のスタンスのまんまだ。だから、悪いと思っていない。姑息だとも思っていない。フリーハンドの質問に対して答えられない。そんなことをしたら窮地に立たされるからだ。だから、これは会見とは云わない。演説だ。
 アメリカのトランプがCNNを目の敵にしている。会見で立ったCNNの記者を無視しようとし、係の女性がこの記者を座らせようとし、それに対してCNNの記者が手を払った場面を改編して記者が女性を叩いたという偽映像まで作った。彼もまた、フリーハンドの質問に対して答えようとしていない。
 かつて佐藤栄作が首相を降りるときの会見で、テレビは嘘をつかないけれど新聞はちゃんと報じないから、この場から出て行けと暴言を吐いた。要するにそれまでの官邸記者クラブを始め各紙の政治部が報じることに対して佐藤栄作は日頃からストレスをためていたということで、それは新聞が権力におもねっていなかったということの証明でもある。その結果当時の新聞各紙の記者はその会見の場をボイコットした。がらんとした記者席の後ろにテレビのカメラの放列が並び、その状態で会見をした。
 いま、わが国の各マスコミのクラブ担当記者はその気概を持っているか。それに対抗する気概を政治家が持っているか、といったらお先真っ暗だ。
 彼らがやっていることは「記者会見」とはとてもいえない。

考える

 深く物事を考える、ということが人としての道を外さないためにはとても重要なんだろうと思う。瞬発的に行動すると、当たり外れが大きくて、それでも当たっていたら良いかもしれないけれど、外れていたとしても、自らの判断で行動したことでありながら、その結果をためつすがめつすることなく通り過ぎていく。それが人の道を外していたとしても、なんの後悔も、反省もしない人の行動を作り出す。そうすると倫理観も、他人に対する情けも何も自らのものとしないことになる。
 そういう行動が争いを生み出す。これをやったら、かの人は何を思い、どうなるのか、ということを無視することになる。あ、つまり、思いやる、ということがこのことなのかも知れない。簡単な言葉だ。「思いやる」ってだけだ。無の中で考える、ということがこれを生むのかも知れない。「無」というのは様々なしがらみを一旦棚上げする、ってことじゃないかなぁ。

トナカイ

 何語だと思います?アイヌの言葉だそうです。英語ではreindeerといいますね。「真っ赤なお鼻のトナカイさん」は「Rudolf, the red nose reindeer」ですから。
 ということは純粋の日本語の名前がないということでしょうか。トナカイを英語だと思っていた、という人にこれまでにお二人遭遇しています。