ほぼ足りてまだ欲 その先

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やっぱり

 そうか、やっぱり碓氷峠は早くからあの部分だけ電化されていたんだな。
 子どもの頃は大阪から西は蒸気機関車が引っ張っていたような気がしていたんだけれど、調べると大阪-明石間が電化されたのは1934年ということになっている。しかし、西明石から姫路の間が電化されたのは1958年だとウィキペディアが書いているから、私の記憶は西明石から先のことだったのだろう。多分初めて急行瀬戸に乗って横浜から岡山まで行ったのは1954年だと思われる。そして1957年に母方の曾祖母が亡くなって、その葬式に両親と一緒に行った。なぜ三人姉弟なのに、私だけがついていったのか、それは今となってはわからない。
 母方の実家は岡山から吉備津線に乗って「吉備津」という駅で降りて、800mほど。その時、岡山の駅に到着したのはもう暗くなっていた。だからひょっとしたら急行瀬戸ではなかったかも知れない。もう吉備津線がなかったのか、岡山の駅からだったら10km程あるあいだをタクシーに乗った。真っ暗な田舎の道を走るうちに、そのタクシーの運転手が「あそこのどこのお宅へいかれるんですか?」と岡山弁で聞いた。母が「角の家です」というとその運転手が母に向かって「じゃ、先生じゃないですか!?」といった。母は父が招集されて北支へいっている間、実家に帰ってきていて、村役場から請われて小学校の臨時教師をやったことがあるのは知っていた。女子師範を卒業して教師の資格を持っていた。そのタクシーの運転手はその時の教え子のひとりだった。とても印象的な出来事だったので、今でも昨日のことのように想い出すことができる。
 そういえば、私が社会人になって赴任した街で夜駅から独身寮まで乗ったタクシーの運転手が小学校の同級生だということが判明したことがあった。私はその街の小学校を卒業していた。しかし、あの時、彼はどうして私だとわかったのだろうか。それとも私が運転手のカードを見て名前で思いだしたのだろうか。かすれかかった記憶では彼は「渡辺」という苗字だったような気がする。彼はギターリストを志していて、Gibsonフルアコを手に入れたくて、稼いでいるんだといっていた。その後、彼はどういう人生を歩んできただろう。