ほぼ足りてまだ欲 その先

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母の日

 ということで私の母のことでございます。中国地方の、といってももうわかっているから岡山の、農家に長女として大正7年だったかに生まれる。母の父親、つまり私の爺さんがいうには(良くあるけど)平家だったんだって。その証拠に見た前、ここに古い槍があるじゃろうが、といって鴨居に賭けてある槍を見せるのだけれど、これは本当に昔からあったんだったら戦争の時になんで供出しなかったんだよ、といわれるだろうし、戦後GHQ咎められるといってみんな埋めたり捨てたりしたと聞いているのに、話が合わないもんだと思っていた。「今度鎌倉へ行って、確かめてくれ」といっていたことがなんだったか忘れたが、この爺さんが小学生の私に巻物を取り出して見せ、スルスルとほどくとそれが系図だった。幼心にも、その系図がなんとか天皇にさかのぼるとつながっているのが不思議だった記憶がある。良くあるように誰かに作って貰ったんだろう。桓武天皇につながるってのは良くあるパターンだからだ。
 おふくろは当時の農村の女性としては破格の教育歴を持っていたんだそうだ。1876年(明治9年)に設置された「岡山師範学校附属女子師範学校」から発展した「岡山縣女子師範」に通ったのだそうだ。当時のアルバムが残っていたから、それを見ながらおふくろが説明してくれたのを覚えていて、在学中に演芸会のようなものがあって「海彦山彦」を演じたという写真があった。今ではもう「海彦山彦(あるいは「山幸彦と海幸彦」)」といっても誰も知らないけれど、昔は日本神話だから誰でも知っていた話だ。いや、しかし、私はなんで知っていたのだろうか。そうした神話を読んだ記憶がないけれど、子ども向けのそんな本があったのかも知れない。
 おふくろには妹がいた。何歳離れていたのか、もう忘れてしまったけれど、それほど離れちゃいない。女ふたり姉妹だから、普通だったら長女が養子を迎えたんだろう。ところがおふくろは遠い親戚、おばさんが嫁いだ農家の次男だか三男だった又従兄弟にあたるうちの親父と結婚してしまう。それで妹、つまり私のおばさんが養子を迎えた。そのおじさんは婿養子になってきて、一体何をやっていたのか、私は知らない。農業をしていたようにも見えないし。つまりおふくろの実家はおふくろの妹家族の家になった。そこには私より4歳上に息子ができた。一人っ子で、それはそれは大事に育てられた。彼は東京の大学を卒業してから郷里の役所に勤めた。ところが1995年の正月に急死してしまう。嫁さんと長女と長男を残したまま。50歳そこそこだった。
 おふくろの話だった。私が小学校一年の一月におふくろの祖母が亡くなった。つまり私の曾祖母である。当時88歳だった。とんでもなく長寿のような気がしたものだったけれど、今になったらそれほど珍しくない。両親と、なぜか私の三人でその葬式に行った。寝台列車だったが、おふくろと私が一緒に寝た。私も寝にくかったが、おふくろも寝にくかっただろう。岡山の駅からタクシーに乗った。行き先を告げると運転手がしばらく経ってから、あそこのどこの家に行くんだと聞いた。いくら、プライバシーなんてことをいわなかった当時でも、普通はそんなことは聞かない。あの角の家だけれどどうして?とおふくろが聞いた。返ってきた答は「先生、教えて貰いました!」といった。
 おふくろは女子師範は出たけれど、学校に奉職はしなかったらしい。しかし、オヤジが北支に徴兵で行っていたときに、実家に帰ってきていて、男性教員が足りないときに、資格があるんだから手伝って貰いたいといわれ、1-2年、実家近くの国民学校の教員になったことがあり、その時の児童だったというわけだった。それくらいタクシーも少なかったのかも知れない。