うちのおふくろは小さかったなぁ。多分150cmなかったんじゃないか。しかし、私が中学生の頃はころころしていた。ちびデブだった。だから、今の私がこんな具合なんだろうと納得ができる。その頃、おふくろをおぶって啄木をきどり「戯れに 母を背負いてそのあまり 重きになきて 一歩も歩めず」とやってうけたくらい、ころころしていた。
うちにいるときは夏場はいつも、自分で縫ったいわゆる「アッパッパー」を頭からかぶった状態でいて、暑いといっては良くぬるい風呂に入っていた。冬は自分で編んだセーターを着ては孫のセーターを編んでいた。
出かけるといっては洒落た着物を着込んでは芝居見物にいった。いつだかうちのつれ合いに「お父さんがゴルフばっかり行っているから、しゃくに障るからどんどん芝居見物に行く」といったそうで、腹いせに見られる役者も可哀想だ。
何事にも凝り性で、お煎茶に凝っていたときも、長唄に凝っていたときも、若いときに卓球に凝っていたときも、鎌倉彫に凝っていたときも、近所のおばさん達をうちに集めては、先生を呼んできて、そんな集まりをやっていた。もうちょっと気が利いた息子のひとりもいたら、カルチャーセンターでもやらんばかりだった。
それでいて、結構おっちょこちょいで、旦那が単身赴任先から帰ってくるときに現金の入った給料袋(昔は現金支給)を電車の中に忘れてきたという大事件も引き起こしている。
そんなおふくろも九つ歳上の旦那(まぁ、私の父)が他界すると、あっという間に認知症状況になってしまい、長女が有料老人ホームに入れると、それが悪化。自宅に帰ってきて隣に住む次女がはりついて介護を開始。我々も一時間半かかる電車で交代介護。そのまま生きていたら、今年は白寿のはず。残念ながら85歳で他界した。
最後は自分の思うようではなかっただろうから、どう思っていたか計り知れないけれど、戦争の時期も乗り越えてまぁまぁだったんじゃないだろうか。岡山の実家は妹に任せて、嫁姑のいない人生だったのだし、そりゃまぁ、時期は時期だったんだから苦労はあっただろうけれど。
今になってみると聞いておきたいことはいくつかある。
なんで私たちは学校に入る前から近所の女学校のキリスト教会に通っていたんですかね?あれはおふくろ以外の誰かの発想じゃないはずでしょ?