ほぼ足りてまだ欲 その先

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年度末

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どんどん緑が色を増す

 もはや全く何の意味も持たなくなった私の「年度末」である。ろくな収入があるわけでもなく、どこかへ通っているわけでもないし、なにかを提出しなくてはならない状況でもないので、年度が始まろうが、終わろうが、どこ吹く風である。いよいよ社会的行動から引退だ、ということになった時、なにもしないでいると、そのうち退屈して早死にしてしまうよ、といわれたこともあるけれど、全然退屈することもなく、ここまで来た。この辺からどんどん先が細くなっていくだろうな、というのは想像がつくし、うすうす気づきつつある。
 世の中は整理ばやりで、断捨離がどうとか、終活がどうとか、あちこちで書かれているし、整理を始めたんだということを聞く。後に残されたものが困るから、というようなことをいうけれど、そんなことをいいだしたのは、ついこの前のことで、親父やおふくろの世代にはそんなことをいう人は聞いたこともなかった。
 親父も、そのまんまで他界した。イヤ実は密かに終活をしていた形跡はある。あちこちのアルバムや書棚の書類に散逸していた多くの写真を時系列に「フエルアルバム」に貼り直していた。一番最初に自分が幼い頃に亡くなってしまったというおふくろ、つまり私の祖母に当たる人の古い写真を、出入りの写真屋にいって大きく焼き直したものを張っていた。自分が世に出て始めて担当した船の写真もあった。小学校のクラスメートとの集まりの写真をどれが誰だかわからないままに貼ってあった。晩年になって、故郷に出かけていって、残っていた5-6人の同級生と会ってきたらしい。驚くべきはそれまで宗教なんて振り返りもしなかったあの人が、突如実家の茶の間に神棚を釣り、榊をあげまし、柏手を打って手を合わせ始めた。どこか聞いたことがある神道系の大きな神社から送られてきた封筒があって、何気なしに見たらなにがしかの寄進をしたらしく、それまでのかの人とは大きな変化に驚かされた。一人密かに準備をしていたということか。その割には机の引き出しから大量な中国製煙草が出てきて、驚かされた。「喉に良い煙草」と書かれていて笑った。確かに最後まで煙草を吸っていた。それも咳き込みながら。
 そこへいくと、おふくろは晩年、認知症的症状を呈したためにそんなことはなにもできなかったといって良かっただろう。この人も蔵書、それも自分の趣味の煎茶絡みや、お気に入りの写真集や大判の本を書棚に並べていた。古本屋に十把一絡げで持っていって貰った。この種の本が勿体ないなぁと思っても置くところがなく、泣く泣く手放したといって良い。おふくろはなんでも気に入ると、必要以上に準備をするという癖があって、驚いたのはタオルの数だった。未使用のタオルが押し入れから「これでもか!」というくらいに出てきた。その辺の血統は私にも多少及んでいて、気に入ったノートがあちこちにしまってある。気に入ったものがすぐに廃盤になって入手困難に陥ることが多い体験がこういう理解不能行動を招く。そういう観点を持たないつれあいには全く理解不能のようだ。
 というわけで、年度末談義がなぜか知らないが、終活話になる悲しさよ。