ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

包装

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 プラスティックを極力使うのを止めようよ、という雰囲気になってきた。ストローくらい変えたって微々たるもんだ、という人はいるけれど、千里の道も一歩からだ。

 私は常に鞄を斜めがけして歩いているので、なんでも買い物は鞄の中にしまい込むので「袋は要らないです」といつでもいう。そのうえ、鞄の中にはいつでも木綿の薄っぺらい袋を入れている。エコバッグといわれるようなものだ。時としてかなり丈夫な布を使っている場合があるけれど、理想はもうぺらぺらなものが良い。場所をとらないし、軽いからだ。その点、スーパーマーケットが売っているような袋は大きすぎるし、丈夫すぎる。
 
 この薄っぺらい袋になんでも入れる。本屋ではいちいち「カバーをしますか?」と聞いてくるので、キャッシャーに出すときに「そのまんま下さい」と宣言します。それでもプラスティックの袋に入れようとするから、油断していられない。「袋も要りません」と最後通牒する。いったい何のために鞄を持っているのか、ということになる。これは洋服なんかを買ったときも、そうする。UNIQLO無印良品で買い物をしても「袋要りません」といって鞄の中に押し込むか、このぺらぺら木綿袋に入れて持って帰る。なぜか。ゴミになるだけだからだ。本屋やUNIQLOの袋はその後はほとんど役に立たない。

 千里の道も一歩からだけれど、とても千里は歩けない。

 こう見えても、子どもの頃、正確にいうと小学校5-6年だったから、1958年頃、鮎を釣りにいったことが数回ある。当時は今でいう静岡市清水区に住んでいたので、川は興津川だった。今だったら鮎は生きた鮎をおとりに使う友釣りだけれど、子どもにそれは難しい。というか、連れて行ってくれた父親の友人という人は転がしだった。転がしというのは毛針を使って、川上から流れに沿って降ろしていくだけだ。これじゃまるで今でいうフライのようなものだけれど、川の苔を食べる鮎が、なんであんな毛針にかかったのか、良く知らない。
 どうもあれは毛針である必要なんかなくて、転がしているうちに鮎をスレで引っかけていたらしい。随分乱暴な釣りだといっても良いか。

 それでも朝3時頃から車で出かけ、ほとんど人のいない川に立ち入って、仕掛けを繰り出した。太陽が上がりきるとかからなくなってしまうので、河原で昼寝をし、また夕まづめに竿を出した。うちの親父はヘタックソだった。多分親父の田舎には川がない。しかし、海は近かったはずなので、海釣りくらいはしても良かったのだろうけれど、多分彼が子どもの頃には、漁師以外は釣りなんてしなかったのではないだろうか。もともと不器用な人だったから、そのせいだったかも知れない。それでも勉強だけはできたらしい。もう今は残っていないけれど、彼の大学時代のノートはそれはそれは几帳面なものだった。後年の親父からはとても想像がつかない。

 もう何年も鮎を食べていない。

人手不足

 あの太平洋戦争が終わりに近づく頃、国内の労働力はとにかく払底していた。17歳だったから、47歳までだったか、根こそぎ徴兵していったくらいだ。それでも与える武器すらなかったと。陸軍幼年学校の生徒たちでも訓練する武器がなくて、手榴弾を投げる練習なんてのをやっていたと作家の西村京太郎が語っている。なにしろ中学生だって、女子学生だって、学校の授業なんてのはもうなくて、勤労動員といって工場へいって働かされていた。当時のニュース映画だったのか、坊主頭に鉢巻きを締めて、ヤスリがけをしている少年なんてのまで見たことがある。

 そんな状態だから、基幹産業ではもちろん猫の手も借りたいほどで、炭鉱を含む鉱山で強制労働をされた捕虜は数え切れない。彼らに対して日本政府はその後補償をしたのだろうか。有名な強制労働では映画にもなった泰麺鉄道の工事があるけれど、国内の各工場、鉱山でもほとんど捕虜収容所があって、ジュネーブ条約では禁止されていた強制労働を課していた。日本はジュネーブ条約を批准していないといって。もちろん刑務所の受刑者も強制労働させられていた。だから、当然看守もいたわけで、私が働いていた昔の造船所にはそのまま看守が戦後の警務員として働いていた。

 植民地である朝鮮半島からも、もちろん労働者として連れてこられた人は数多く、捕虜と同様に各地の鉱山、工場で働かされていた。これは事実だ。しかし、彼らに対しては日韓条約で精算が終わっているというのが日本政府の建前である。しかし、個人個人が、彼らの労働によって利益を上げていた企業に対して、その分を補償して欲しいという要求はこの条約に含まれていない。

 三菱マテリアルは彼らの訴えに応えた。しかし、日本製鉄とまた名前を変えた新日鐵住金(元の新日本製鐵、つまり元の八幡製鉄と富士製鉄、つまり戦前の日本製鐵)はこれを無視した。そして安倍晋三自公政府総理はこの訴えを支持する韓国政府に対して「不適切」なことがあったから、「優遇」していた輸出規制を優遇しないといった。

 これが日本国民をして「当然だ」と世論でいわせている。韓国では日本製品不買運動をするといっているが、例のフッ化水素など三品目を規制強化されたらお手上げになるらしい。

 相手を追い詰めることが外交手段なんだとしたら、これはもう既に戦争を挑んでいるということになってしまう。自分たちがあれだけABCD包囲網に苦しめられて、致し方がなかったといって始めた戦争を正当化したがっている勢力は、今度もし(そんなことは絶対にあり得ないけれど)韓国が日本に手を上げたら、「そりゃ追い詰められたんだからしょうがないな」と解釈はしないだろう。そんなことわかっているのに、こんなことをする。

 これで「あぁ、すっとする」といって喜んでいる爺は、憎悪侮蔑に値する。

不忍池

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 もうそろそろ良いんじゃないの?と思って、上野不忍池に行ってみた。この写真だけ見れば、あぁ、良いんじゃない?と思いそうだけれど、実はそうではなくて、咲いているのはまだ、ぽつんぽつん。あと一週間くらいじゃないだろうか。毎回上野のこの近辺に来ると、世の中本当にいろいろな人がいるんだなぁと、思う。表参道とは比べようがない。といっても表参道なんて、もう何年もまともにいったことがない。
 
 下町風俗資料館に行くあたりは、今でもまだピンク映画館が残っているし、近辺には家なき子じゃないかと思われる皆様が昼日中から酔っ払っておられるし、いったいどこから来たんだろうと思われる独り身の人が、それぞれ全く雰囲気を異にして、座り込んだり、寄りかかったり。そうかと思えば伊豆栄やらその向かいの鰻屋なんてところだって平日の昼間だってのに、お客さんがひきも切らず。ちょっとアメ横にさしかかれば、むっとするような匂いを漂わせているケバブの店やら、アフリカ系の店員がたむろっているど派手なTシャツ屋。どう考えても、小洒落ちゃいない。欲望渦巻く歌舞伎町ほどでもない。実に中途半端に田舎向け都会の感を呈している。

どういう意味

イラン政府は7日、2015年の核合意で定められたウランの濃縮度を制限の3.67%から引き上げる作業に着手したと発表した。

 これがなにを意味するのかがわからない。

濃縮度3%から5%の低濃縮ウランは原子炉の核燃料として、濃縮度90%を超える高濃縮ウランは兵器用の核燃料として使用される。

 これとはなにか関連があるのか。

優勝

 石川遼が日本プロでプレイオフで韓国の選手を破って優勝した。最後のバーディーパットを入れたら、思いっきり拳を突き上げた!まるでタイガー・ウッズのようだった。復活といって良いのだろうけれど、彼はまだ27歳だ。何しろスタートがまだ高校生だったから、もうずいぶんと鳴かず飛ばずだったという気がする。黙って聞いていれば英語がしゃべれるようになるという、かなりな過大広告商品の宣伝に出演して看板代わりになっていたが、これでようやく少しは地に足のついたプレイヤーとして認められるんじゃないか。これを機にまわりはさぁ米国ツアーに再参戦だ、というかも知れない。同年齢の松山英樹ミネアポリス北部で開催されていた3M オープンで上位争いをしているのを見ると、彼にもあのまま米国ツアーに挑戦し続けていて欲しかった。小平智はなにが理由か知らないけれど、しぶとく粘りに粘って米国に留まっているのを見ていると、いつの日か夢が現実になってほしいものだと応援したくなるが、もうすぐ30歳の大台に乗る。ま、フィル・ミケルソンを見れば、まだまだやれるよと云ってあげたい、小平にも石川にも。

無自覚

 近頃、私の周りでも、一般的にも「昭和歌謡」といういい方が流行っていて、あっちでもこっちでもライブに「昭和歌謡をお届け!」というような言葉が踊っている。なんで、わざわざ昭和歌謡なんだろう、と思っていたんだけれど、気がついたら、昭和が終わってからとっくに30年も過ぎていて、だから、あの辺の歌はもう30年以上昔の歌だってことなのだ。それを懐かしむ、ってことらしい。
 私が高校生の頃、つまり1960年代だけれど、うちの親父やおふくろはテレビ東京(当時は東京12チャンネルといったかも知れない)の懐メロ番組をテレビで良く見ていた。今、ラジオ深夜便の午前3時台で時々特集されるような、田端義男、三橋美智也岡本敦郎岡晴夫、春日八郎、霧島昇小畑実渡辺はま子、菅原都々子、二葉あき子・・・枚挙にいとまがない。
 ということは昭和歌謡というのは、本当はわれわれの世代にとっての懐メロじゃないのか、と思っていたら、今のアラフォー、アラフィフにとっての昭和の唄ってのは多分1980年代ってことらしいね。その頃はバブル真っ盛りで、私たちは仕事に追われて、ほとんどテレビの歌謡番組を見る余裕がなかったのかも知れない。彼らが選択する歌のほとんどはメロディーはわかっていても、歌詞はほとんど入っていない。
 ところが親父やおふくろが喜んでみていたあの戦後から10年そこらに聴いた唄は、何も見なくても歌詞を諳んじることができちゃう。まだ脳のHDDに充分なスペースがあったんだろうか。今日も風呂に入って、ラジオをかけていたら、ちょっと後だけれど、橋幸夫吉永小百合の「いつでも夢を」(1962年9月)がかかった。身体を洗いながら一緒になって唄うことができちゃう。鼻歌じゃなくて、ちゃんと歌詞を諳んじて。当時私は14歳で、高校受験を控えた中学三年生だった。この歌詞が入るところに、音楽理論を入れておいたら翌年の都立第一志望に受かっていたのになぁと思いだしたのであった。