一時期視聴料を払っていなかったことがある。30年ほど昔のことである。NHKが箱物にとてつもない金額をかけたのがこの時期に当たる。支払い主になんの相談もなしに勝手なことをするなと、アパートの扉に「NHK箱物支出に反対します」という貼り紙をした。つまりあの箱はすでに30年たったことになる。私は数年未払いだったはずである。それでも業務上の関係で払い出すようになった。それからはずっと払っているが、どうも腑に落ちなかった。払っても払わなくてもなんのデメリットもない。これが年金の保険料のように、払わなかったら大きなデメリットがあるというのであれば話はわかる。しかし、まったくそれはない。これは国民全員の性善説に成り立っているとしか思えない。あるいは国民全員が従順だ、もしくはお上の云うことには逆らわない、と思いこんでいるでも表現したらよいのだろうか。
人間が運営するのであるから間違いも起こりえる。神聖な中立という立場は理論的には決してあり得るものではない。マジョリティーとマイノリティーを秤にかけた時にはマイノリティーにおまけウェイトを乗せて初めて天秤が水平になるという、単純算数では現すことのできない計算もあり得る。しかし、ひとつの組織が継続して存在すると、どう頑張ってみたところで早晩疲労が蓄積され、人間は既得権益を守ることにかけては天才的であるから(一体誰と比べているのかわからないけれど)どうしても膠着する。だから、大きく変換することが組織の活性化にはひとつのインパクトになるということはいえるだろう。いくら会長が頑張ってどんなに叩かれようが「粛正する」と云っても、精神論だけではその効果が現れるはずもなく、集められた金が透明の元に管理されるとは保証されない*1。つまり、これまで営々と築きあげてきた既得権益を一度チャラにする必要があるのではないだろうか。
しかし、私はNHKをなくしてしまう、あるいは他の民放と同じものにするという考えには与していない。なぜか。永六輔が云うように、「食べ物」か「悪ふざけ」に終始している今の民放番組はいくつもある理由を放棄しているとしか思えないからである。テレビのチャンネルを次から次に変えてみて「なんだ、面白いのないなぁ」と何度呟いたことか。そして結局いづれかのNHKのチャンネルを見ていることがいかに多いことか。
例えば、よるの8時台に「福祉の現場」についての番組をやれるのはNHKしかいない。スポンサーの縛りがないことは重要である。そしてあの時間にあの種の番組を放映できるのはあれだけ沢山のチャンネルを持っているNHKでしかあり得ない。あれがもし民放に移管してあの時間帯に放映できたとしても、その時には、中身の評価が明確でない有料老人ホーム、現場労働者の労働強化によって成り立っている在宅介護事業者、なんていうようなスポンサーがガンガン宣伝を流し(今でも時間帯によってはその類のスポンサーの宣伝が全くのフィルターなしでながれている)、番組中では「信頼が置けるのか?有料老人ホーム」なんてテーマを取りあげることは決してなくなってしまう。「わぁ〜!すご〜い!」という通り一遍の声で表現される番組になること請け合いである。
世の中には新聞も読まない、週刊誌も読まないけれど、日頃テレビだけは見ているという人たちは現存する。その人たちの価値観にテレビが大きく寄与していることは想像に難くない。だからこそ余計にNHKの報道姿勢は視聴料を多くの市民から集めて成り立たせるのであれば、明らかに何らかの勢力におもねざるをえない立場になってはならないのである。
いくら下部組織が実行しているとはいえ、プロジェクトXの制作に協賛金を取ってはならない。あれではスポンサーのためのヨイショ番組に過ぎない。中島みゆきを冒涜している。わざと抑えた低いナレーションとビンビン低音を響かせたBGMで脅かして盛り上げるのは民放によく見る事実の演出である。だれが制作していようと放送するのは視聴者が払った金で運営されていると思われている正にそのNHKであることを忘れてはならない。
かつて私が働いていた会社でNHKの30分番組の制作のための取材を受けたことがある。製品の開発の理由を説明するために実験装置を三度稼働させた。一度稼働させると百万円単位の金がかかる。時間もかかる。つまり従業員の人件費がそこには含まれるのである。しかし、NHKはハンドタオルを十枚ほど置いていっただけだ。しかも、「〜にある会社の工場では」という解説が流れて社名は出ない。私はこれで良いと思っていた。何たって「不偏不党」なんだと。しかし、考えてみるとその番組はその実験装置の稼働なくしては意味が全く弱くなる。そこまで協力したんだから名前位出せよ。さもなくば名前出さなくても良いから必要経費は負担しろよ、と今では思う。