ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

腐ってる

 もう多分ほとんどの呑み屋で昨日は語られていたんだろうけれど、某放送局の辞任した会長が一緒に辞めた幹部二人を引き連れてそのまま顧問に就任したんだそうだ。やっぱりなぁ〜んにも分かってなかったのである。なぁんにも分かっていなかったのはその三人だけではなくて、「刷新」という言葉からはるかにかけ離れているらしい新体制も含まれているということのようである。これは良く企業で見かける、役員を辞めてもこうした面妖な肩書きにしがみつくじいさんたちの姿そのものなのかと思ったけれど、この三人がいっぺんにこうした立場に立とうとするのはそんなプリミティブな発想ではなさそうだ。「ふ、ふ、辞めれば一件落着。それで顧問で残ればいいんで、後は今まで通りだよ」とでもいうような会話が交わされていたのではないかと想像してしまう。この場合、エビさまは進藤英太郎にやってもらいたいなぁ。産業再生機構が入ったカネボウの旧経営者の体制とほぼ同じような匂いを感じる。あそこでは再生しようとする力が社内の若手から盛り上がっているが、どうやらNHKにはそうした力がまだ盛り上がっていないらしい。それにしてもNHKに留まっているとそのステイタスにはどんなおいしいことが待っているのであろうか。とにかく辛いことだけの連続なのであったならば、そんなにこの立場に固執する必要はないわけだし。「とにかく肩書きが何もなくなることが耐えられないから、給料なんてほんの少しでいいんだから残してくれ」というようなものではなさそう。「国定忠治」なんかを口にしてえへらえへらしてしているところを見ると「責任は放棄、だけど、う、ふ、ふ・・」という雰囲気だったんだろうか。
 「毎日新聞 2005年1月26日東京夕刊のウェブサイト」が「特集WORLD:素朴な大疑問 NHKの受信料 」という記事を掲載している。この記事はNHKの根本をきちんと説明してくれて参考になった。1950年にNHKはそれまでの社団法人から特殊法人とされ、独立行政委員会がその行政を担当した。連合軍による占領期である。しかし、講和条約が成立した1952年になると独立行政委員会の電波管理委員会は廃止されて、電波事業は郵政省の手に落ちる。この時から与党政治屋によって精神的にのっとられてきてしまったといっても良いのではないだろうか。
 どうやら連合国占領軍によって統治されていた時代に、フェアネス、独立性、あるいは正義というものが、東西対立の構図の中でそれを理由に清濁併せのむことが国を守る上で重要なのだというまやかし論理がまかり通って、次々に、しかも手際よくなし崩されてきたような気がする。つまり、恩給の復活を初め社会保障システムにおいてもそうであるように、票を集めることができるのであれば、あるいは利権としてその対象化ができるのであれば、数の力で占領期のシステムを壊してわがものにすることができたと云うことだろう。そしてあくまでも共産主義の防波堤とするために真ん中よりも右側を力づけなくてはならないという国家的利害主義の元に私の国はかの国から操作されてきたということだろう。極論をしてしまえば、かの国の国家的利益のために私の国のシステムは崩されてきたということなんだろう。だから与党がいう「国益」というものがすべからくかの国のいうがままに従うことをいっているのは、与党にとっての「利益」つまり「党益」を意味しているのだ。と同時にかの国の「国益」のことを表現していることになる。
 こうなると政治というものが一体誰のためのものなのかということを考えるのは馬鹿馬鹿しいものになっていく。さまざまな法制化の中で常に誰が儲かるのかを考えてみればわかりやすいわけで、常に、何もいわない、金を持たない、毎日の生活に埋没している、そんな人たちが一番損をすることになっている。そしてそんなことは当たり前のことで今更いうほどのことでもない。
 ひとりの市民が行使できるただ一票の選挙権では何も起きない、しかし、それを結集したらきっと政治をわが方に動かせると煽ってそれをまとめると今度はその集団の利害だけを追求する集団と成りはてる。これに宗教がからめばもうこれは万全、となってしまう。この結集した力が政治につながるのではなく、ソーシャル・ワークにつながった時に、頼られる対象でなくなってしまう政治集団は、そこで利害関係の圧倒的優位な立場を失うのではないか、というのは短絡だろうか。
 労働法は常に被用者の立場に立って改定されていくかといえば、当然に雇用者の立場に立って改定されていく。人材派遣業法を見るが良い。企業側が如何に安い労働力をより安い形で雇用することができるか、という観点で改定されていく。少子化を如何に押しとどめるかという論議は精神論で語られているだけで、その実は如何に雇用する側が経済団体を使って「山崎屋と代官様」のパターンそのままに、おいしい制度を作り出すかということに邁進しているだけだから、いつまで経っても安心して子育てに集中できるシステムを作り出すことはできない。オランダのワーク・シェア・システムは、「出すものは息も出したくない」既得権保持者、つまり雇用者が盲目的に「既得権保持こそが自分の職務」だと思っている私が住んでいる国では定着はするはずがない。欧州のいくつかの国では特殊出生率がただただ減少するばかりではなくて盛り返している。しかし、私の住んでいる国ではこの減少傾向に歯止めをかけるのは難しい。
 自分たちが夢見る生活は「あれも買え、これも買え!」という商品情報の嵐の中でつくられてくる。そんな生活を考えたって「先立つものがないんだからしょうがない」という状況下ではそんな事は起こらなかったのかも知れないけれど、今や「ご利用は計画的に」なんて言葉さえついていればこれを利用するおまえの責任さぁ〜、と高利貸しが市民権を獲得し、そんなところからちょっと借りることに眉をひそめるのは時代遅れだという風潮が蔓延する。こうして儲かれば何をしても良く、そんなところにエネルギーを費やすことが「仕事」なんだと誤解している物欲の権化がマスコミに乗る。「金で買えないものはない!」と言い放つ教養のかけらも見えない若造を追いかけ回す右翼マスコミこそ電波行政は取り締まれといいたいが、「山崎屋と代官」はそんなことは眼中にない。

 あれ?!話はどこに行ったんだ? あ、つまり、「おじいさん、もういい加減にあきらめて引退しろよ!退職金なんて全額スマトラ沖に寄付しろよ!人様の寄付ばっかり呼びかけてないで、自分でも寄付してみな!」である。
・・・・・・・・どうせ何も起こらないんだろうなぁ・・・・・。選挙に行こう!・・むなし・・・。
 といっているうちに、顧問辞退、という話である。それも三人いっぺんにである。ここらがまたわざとらしい。そして橋本新会長曰く、「いずれにしろ顧問の影響を受けるという立場ではないので・・」だったらそんな役職要らないだろ、もともと。