ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

池部良朝生出演す

 いや、もちろん録画なんだろうなぁ、これだけ高齢の人を集めたんだから。それにしても池辺良さんとはお懐かしい。しゃれたおっさんだったもんなぁ。今や86歳だという。声は変わっちゃいないぞ。13人の元皇軍軍人が集まって体験談を話す。睡魔と戦う。
朝まで生テレビ】をついに朝4時まで見てしまう。考えてみたら、あちらも録画なんだから、こっちも録画すれば良かったのにもかかわらず、そんな発想が全くなかったことにあきれる。もっともそれに気づいたとしても空のテープがない。これがきっと今流行のHDD付きDVD録画機をもってすれば簡単簡単なんだろうけれど、それにかかるイニシャル・コストは馬鹿にならんわけだろう。

  • 「激論!敗戦60年!元帝国軍人があの戦争を語る!」:出演者は五十音順。しかもメモに書き取れた発言のみ。(不十分で申し訳ない。あらかじめお断りしておく。)
  • 阿部三郎(81歳)(海軍中尉):桜の時期に特攻出撃を見送った。体当たりする時は最後までしっかり目を見開いていけよといった。エンジンを吹かすと機体は浮いてしまう。だからしっかり見て行けといった。しかし、いざ自分の番が来ると本当にそんなことができるだろうかと心配になった。俺が死ぬことで日本が負けるのが一日でも遅くなればよい、と思っていた。出撃前に終戦になったわけだけれど、その時は助かった、という気持ちとあぁ死ねなかったという気持ちの両方だった。

  • 池部良(86歳)(陸軍中尉 俳優):インドネシアのハルマヘラ島に。大陸にいた時に幹部候補生となり、結果的に兵で2年、士官で4年従軍。「私はどのような兵なのか」「なんのための戦争か、目的のない戦争である」という意識に目覚める。ある時は蒋介石、国民党軍と戦い、またある時は毛沢東八路軍と戦うと聞かされたけれども、それがなぜなのかがわからなかった。天皇制を共産思想から守るためなのか、植民地を確立するためなのか。戦う相手はかわいくはないけれど、憎くもなかった。

  • 大村富美夫(81歳)(陸軍上等兵

  • 沖原紀夫(海軍大尉):インドネシア独立に尽力。当時どの様なことがあったかについて細かいことは今でも支障があるので言及はできない。(佐島:東南アジアのどの国も独立にあたって日本軍が力を提供してきた。戦後50年の1995年にオーストラリアで開かれた学会でも日本はアジア各国の解放に尽力したという発表をした研究者がいたくらいである。注:佐島はオーストラリア学会、ニュージーランド学会にも属している。キャンベラのオーストラリア国立大学から著作を発表している。しかし、非常に例外的な例を引用するところは恣意的である。)(小澤:インド洋方面では日本が独立に力を貸したとはとてもいえない。日本軍が英軍を追い出したのは事実ではあるがその後の補給が行われず、現地にとっては入れ替わったにすぎない。)

  • 小澤一彦(海軍中尉):B・C級戦犯は現地人の一方的な証言によってのみ処刑された人が多く存在する。スパイ行為を働いていた住民を斬殺した兵はそれを理由として処刑されている。つまり報復的措置として処刑されている場合がとても多い。

  • 加藤 六月(陸軍士官候補生 元衆議院議員):大日本帝国の戦いは大東亜の解放、八紘一宇、日本の恵みをアジア各国に分け与えるという思想の元の戦いであった。日本を守るのではなくて、ほぼすべてが植民地であったアジア各国を解放するためであった。(質問:戦う相手としての米国の力を知らなかったのか:【回答】職業軍人の前には詳細なデーターがあるわけではない。アメリカの詳細を知るわけではない。)(注:職業軍人はどんなことでも命令を受ければそれに従うのだーという意味。職業軍人というものは軍事のプロなのではなくて徹底的に従うという意味でのプロのようである。日本が植民地化していた朝鮮、台湾についてはどうするというのであろうか)

  • 簡茂松(陸軍上等兵):台湾人でありながら日本軍人として徴用された。当時は当たり前だった。ラバウルでは台湾人12名が戦犯として処刑された。理由は捕虜への強制労働を理由としていた。(注:国内の各企業の現場で労働に従事させられた敵国戦時捕虜への行為を戦犯として認定されて処刑された人はいるのだろうか)広島に復員してきた時に台湾兵は因島の元海軍刑務所に入れられた。(収容施設がなかったからなのか?)その時入管でいわれた言葉は「君は台湾人なのに、なぜ日本にきたのか」というものであった。非常に屈辱的な思いをした。私たちは皇民化教育を受け、日本人として従軍したのに、全く軍人恩給も支給されず、それでいながら靖国に入れられ、分祀してくれと交渉にきた台湾の人たちを拒否した。(加藤:それはサンフランシスコ講和条約において・・・)

  • 木下 迪介(79歳)(陸軍兵長*1

  • 斉藤一好(85歳)(海軍大尉):青法協発起人の一人。飢餓とマラリアに苦しんだ。多くの従軍者が友軍の犠牲者を多く見ている。ガダルカナル島からようやく脱出した兵の多くはそのままインパールに移動させられた。日本という国は本当に兵を大事にしないとつくづく思った。【高文研サイト】著書「一海軍士官の太平洋戦争」の著者紹介から:1920年山梨県に生まれる。県立甲府中学卒後、1938年、海軍兵学校に入学(第69期生)。41年3月、同校卒業。少尉候補生として、戦艦陸奥をへて連合艦隊旗艦の長門に乗り組み、同年12月の日米開戦を迎える。42年6月、駆逐艦雪風に転属、当初は航海士、次に水雷長を務める。44年2月、雪風を退艦、潜水学校をへて同年8月、巨大潜水艦イ400の艤装員、続いて同艦の水雷長に就任。45年7月、米太平洋艦隊の根拠地ウルシー環礁への特攻攻撃のため出撃、特攻攻撃直前、洋上にて敗戦を迎える。戦後は、弁護士への道をめざし、46年、東大法学部に入学、51年に弁護士活動を始める。54年、青年法律家協会の結成にさいしては発起人として参加。その後、スモン薬害訴訟や水俣病裁判の弁護団に参加する一方、55年の発足時から国際民主法律家協会(IADL)の活動に参加、国際書記、副会長(90〜 96年)などを務める(現在は顧問)。他に、66年、東京弁護士会副会長、70年、日本弁護士連合会理事等も務めた。著書『いくさの庭から法の庭へ』(昭和出版

  • 太宰 信明(76歳)(海軍二等航空兵曹):元ラジオ仙台アナウンサー。予科練出身。15歳2ヶ月で特攻に志願。「特攻隊は志願だが、志願せざるを得ない状況にいたのだ。志願するものは前に出よ、といわれて、前に出ないわけにはいかないのだ。」

  • 寺嶋芳彦(85歳)(海軍兵曹長):アジア各地で遺骨収集活動を続けている。17歳で支那事変、南京作戦に参加。「南京虐殺はその数には異論はあっても明確にあった」と断言。「毎朝船をもやってあるロープに川上から流れてくる死骸が絡まるのでそれをはずすのに苦労をした」「支那軍は最前線に塹壕を掘り、そこに足に鎖をつけた民間人を並べる。その後ろには彼らが逃亡しないように監視する兵を配置していた。ひどいことをするものだと思った」「これまで戦争について本当のことはいえなかった。いえば戦犯に該当する人たちがいたからいえなかった。中国では日本軍は明確にひどいことをした。スパイなのではないかと疑われる場合には縛って川に放り込んだ。なぜ女・子どもまで殺すのかと思っていた。悪いことだとわかっているけれども、日本の軍隊というものはそうしたところがあった」「子どもの時から仲良くする教育をして行かなくてはならないんだ」マニラにも在留邦人1.2万人が残されたがそのほとんどは女、子ども。北部へ移動させ、農工隊として作業に従事してもらうつもりだった。6月にはいると雨期となって川が氾濫。動けなくなる。声を出すと敵に見つかる恐れがあり、幼い子どもを母親が自ら殺し、山に逃げるも食糧がなくなり、途中で次々に死ぬ。元気な若い女性は臨時看護婦として徴用された。標高1600mの地域で夜は冷え、多くの人がマラリアを患う。

  • 名越 二荒之助(82歳)(陸軍軍曹):審陽に。戦後一年間にわたり、朝鮮にあった日本が建設した施設からソ連軍が持ち帰るための作業を手伝わされた。その後モスクワで2年間。ドイツ人3千人、日本人1.5千人がいた。ドイツ人は平気でナチスの軍歌を歌ったが日本人はロシア民謡であったり革命歌を唄った。共産主義化洗脳のための「日本新聞」が配布され、マルクスレーニンについては輪読会が開かれ、洗脳された。洗脳されたものから帰国が許されるというにんじんをぶら下げられた。自分は共産主義を批判する分を書き続けていたから独房懲罰房にも入れられた。共産主義に染まらなかったのでハバロスクへ送られ、4年間。日本人が日本人に対してする吊し上げが一番辛かった。

  • 松浦喜一(81歳)(陸軍少尉):昭和18年学徒出陣。鹿児島万世飛行場にいた。昭和20年6月7日に翌日の出撃を命令されたが、飛行機が故障して延期となる。6月19日早朝に命令が下り、15時に4機の隼で出撃。1機は故障して帰還。3機で沖縄に向かう。当日は悪天候で雲が低く、海上わずか20mを2時間ほど飛ぶ。沖縄までは2時間半といわれていたので、ほぼ徳之島あたりで3機のうちの1機が海面に接触して墜落した。(パイロットはどうなったのだろう・・・?)残ったのは隊長機と自分の2機となったが、隊長機はなんと引き返した。従って自分も引き返してきた。燃料は両翼に満載し、予備タンク一本にまで満載だったから、2500kmの航続距離はあった。鹿児島/沖縄間は片道600kmだから充分の燃料を持っていた。(片道分の燃料しか持っていなかったと聞くが・・):私が知る限りではそうした条件で飛んだ話は聞いていない。練習機で出撃した場合には燃料タンクの容量が少ないから結果的にそうなった可能性はある。私は職業軍人ではなかったけれども、当時の子どもは幼い頃から皇民教育を受け、自らは天皇陛下に捧げた人生であると意識させられてきていた。だから立派に命を差し出すつもりであったけれど、命令が下り、機のエンジンが回った時に私は「帝国軍人」を捨てたのだ。どういう意味かというと天皇大日本帝国のために死ぬのではなくて、自分が愛する人たちのために死のうと思ったということである。(愛する人達のために生きて帰ろうという考えにはならなかったのか?−遙):皇民教育されていたのだから、死ぬということが当たり前とされていたのであるから、そんなことは考えられなかった。戦争というものはガダルカナル島インパールフィリッピン等を見ても死んだ人のほとんどは病死だったり、餓死だった。そんな状況下にあって(戦闘で戦死したわけではないのだから)天皇大日本帝国のために死んだと思っていた人はいなかっただろう。70歳までは戦争のことは全く家族にも話さなかったし、聴かれもしなかった。その時に本を書いた。忙しさに駆られて振り返らなかった。

  • 佐島直子(専修大学助教授・元防衛庁職員):父親は旧日本カーフェリーの佐島元社長。同社は萩原吉太郎を筆頭とする北海道炭鉱ご一統様で知られていたが、実は海軍兵学校出身者が多く在籍していたことで知られていた。この日も自ら語っていたが、佐島元社長も海兵の出身で、運輸大臣も経験した加藤六月に対しては支援を続ける立場にあったという。つまり彼女にとっては丘職業軍人が「是」とされる環境の中で育ってきたことは間違いがない。佐島直子は1982年から19年間、防衛庁防衛研究所に勤務。上智大学卒、青山学院大学修士

  • 明珍 美紀(前新聞労連委員長、毎日新聞記者):社会部出身。

  • 遥洋子(タレント・作家):ご存じ、上野千鶴子に喧嘩の仕方を習ったという関西タレント

  • 最後に田原総一郎が小泉の靖国参拝に賛成な人は、という問いかけの中で挙手したのは加藤六月と名越二荒之助の二名だけであったことは意外であった。

  • 自分が取ることができたメモに記載のあるものだけを取り上げているわけで、メモをとれなかった部分は全く反映されていない。だから例えば非常に多くのコメントを提供していた小澤さんの意見はほとんど反映されていない。多くの方がこれまでに何回も人前でお話をしているであろうことが推測できそうである。自分のしゃべり方のプロセスができあがっている雰囲気があり、一度話し始めるとそのプロセスに従って話しているのだろうということが窺い知ることができそうである。

  • 非常に不思議だと思うのはここに出席している人たちの多くの方々が、ご自分が持つ価値観についてフレキシブルであるということであった。私自身が自分の価値観を非常に硬直化して考えているという認識があり、むしろ自分の価値観に辻褄を合わせるという努力をしているような気がする。しかし、この方達の多くはこれであればこの価値観、あちらの話であればあちらの価値観というフレキシブルな様子が見受けられるということに気づく。その例外は自民党の政治家ではあったが。

 しかし、ことアジア太平洋戦争、朝鮮半島、台湾、支那に対する日本のスタンスという点で考えると戦前の私たちの国が実施してきた皇民化教育は実にその功を奏しており、いついつまでもその教育の効果は当時の子どもたちに立派に受け継がれているんだなぁと再認識する。そこから考えると戦後の日本の教育は画一的な価値観を押しつけてこなかったという点で違うものになって当たり前で、戦前に教育を受けた人たちから見たらとても我慢ができないものであるのが当然である。つまり、「皇民化」という洗脳を受けた人たちにとってはその根底的な価値観を否定されるということは耐えることができないことであるだろう。だから名越氏のように「靖国遊就館にいって私たちの国がどのような国なのか知って欲しい」という人もいる。

*1:こちらの方の年齢が本当は84歳のようです。私のメモには79歳とのこっていました。http://www.hatena.ne.jp/1120288722