ほぼ足りてまだ欲 その先

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大島浩

NHKが2021年8月14日に放送した「ヒトラーに傾倒した男〜A級戦犯大島浩の告白〜」の録画を見る。
大島浩は陸軍の軍人にして、駐ドイツ日本大使を務めた男である。
そもそも大島はのちに陸軍大臣にまでなった大島健一の息子で、幼い頃から父親の影響でドイツにどっぷり浸かった教育を受けたそうで、その上、陸軍中央幼年学校まで出たエリート軍人である。
ベルリン駐在武官となって駐在してから、持ち前のドイツ語を駆使して、ナチスと親交を深め、特にリッペントロップと親しくなる。もちろんアドルフ・ヒットラーとも通訳を介さずに会話ができ、ナチス軍から信頼されたと言われている。ゲッペルスに至っては、大島の記念碑が必要だといったくらいだったという。
駐独日本大使となるも、独ソ不可侵条約を読めなかったということで、一度大使の任を解かれたが、ドイツとの間の強い繋がりが彼をして再度駐独大使に返り咲かせる。
 89歳で死ぬ二年前、1973年に語ったというテープの中で大島は「三国同盟をいいだしたのは私だ」と断言している。松岡外務大臣がその牽引者だと、戦後に元陸軍将校たちが偕行社で語ったという記録を半藤一利が「なぜ必敗の戦争を始めたのか」の中で残しているけれど、その松岡から、骨子を一筆書いてくれと言われて「その辺の便せんに書いて渡した」ともテープの中で語っている。
大島浩は駐ベルリン大使の頃、欧州の各日本大使館に対しても絶大な権力を振るっていて、この番組の中でも、大島がしきりにソ連進駐について、ドイツが圧倒的だと分析、本国に報告することに対して、時の駐ハンガリー大使は異を唱え、大島に降格されているし、戦局がドイツ不利となって以降、ヤルタ会談の内容を把握した小野寺信の情報も足蹴にしたと云われている。
 子どもの頃からドイツびいきとして育ってきた大島浩が、それ以外に自分の存在意義を見つけることができない分野にどっぷり浸かり、タイミングに巧い具合に合わせ、日本をぐいぐいとヒットラーとの心中に引きずり込んだといっても良いかも知れない。
東京裁判では極刑を言い渡されることもなく、終身刑となったが、1955年(昭和30年)11月に仮釈放されている。それ以降は茅ヶ崎に暮らした。
聞きしに勝るナチスびいきの男だった。