ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

行動力

 新しい企画のために何人かの知人に知恵を借り、手伝ってもらおうというのが今日の集まりである。これまで動いてきたものを動かし続けることもエネルギーがいるけれど、これまでなんの形にもなっていないものを動かすことにはなかなか億劫である。特に私は自分自身が前向きに動くことが好きではないからなおさら。いつからこんなことになったのだろうか。


 20歳前後の頃は年に二回も何十人という仲間を集めてスキーツアーを主催する、なんていうことを喜々としてやっていたのではなかったか。バスの手配から宿の手配、中身の交渉、参加費の設定、同行者の募集、4泊5日のプログラムの計画、そしてその実行。あの頃の力はなんだったんだろうかと思う。


 多分一番最初に挫折した要因は、新しいことを生み出そうとする時の将来的継続の可能性の是非ではないか。「君は精通しているから始められたとしても、それを引き継ぐ人間にそのタレントがなかったらどうするのか」という否定のための投げかけはこれまでにも何度も経験してきた。するとその一言が誰かの口から出た途端に、(あ、もうダメなんだな)と判断する。人間は学習するのだ。


 一度否定のコメントをもらってしまうと、同じ関係性の中で新機軸を打ち出そうとする時には、前回の否定根拠になる価値観を先取りする。そして何が起きるかというと自らが創り出したその考えを自らが否定しようとする。一体全体、人間の思考形態とは不思議なものであってやらなくても良いのに先取りをする。振られるのが嫌だから、あるいは振ることになって悪人になるのが嫌だから恋愛に踏み切らないのもこの類か。


 組織で仕事をする時にいつももどかしく思っていたことに、自分の仕事のテリトリーという問題がある。自分が担当すべき仕事の範囲はどこまでか、ということを常に頭の片隅において行動しなくてはならない時がある。例えば営業をしていた時は商品ごとに営業担当が分かれていた。商品を熟知するためには扱う商品を限定した方が可能性が高いと思っていた。だから、ある客先から「お宅でやっているこんな商品にも興味があるんだけれど」と云われた時にはその商品の担当者をその客に紹介する。するとこれまで自分が大事にしてきた客先に失礼があってはいけないと気になる。だからといって今度は営業の分担を客先ごとにする。つまり、この客が必要とするものは先取りしてでも紹介していく。いってみればAmazonの「こんな本を買った人は、こんな本にも興味を示しています」キャンペーンである。すると今度は自分が担当していない業界のお客さんを見つけた時にどうするかと云うことになる。それを踏み越えて営業しようとすると「それはお前の営業範囲じゃないだろう」とどちらも云われてしまうのである。だからといって踏み込むことを止めておこうと行動する。

  • 店の前の道を掃く時には、半分から少し向こうまで掃いておく。真ん中の所は両方から重なって掃くぐらいに。そのすこ〜し向こうまでの幅が難しいのである。

 それにしても、行動力は何もおそれずに飛び込むことができる時、どんなことが起こっても対応できるという技能が付く、あるいは肝が据わる時でないと発揮されないのだろうか。どんどん行動力が低下していきつつあるような気がする。こうして書いたことも読み返すと、如何に自分が行動できないかということへのいい訳の羅列のような気がする。自分の椅子の周りだけに手を伸ばせばできることだけ、やっていこうとしているのかもしれない。


 久しぶりの友人たちとちょっと呑んだ。