ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

つい本屋に

 やっぱり文春文庫の「驚異の百科事典男」はどこに行っても置いていない。新書の新刊置き場で過日話題になった「下流社会」を買ってしまう。私は昔から名作、ベストセラーという類が嫌いだったのにもかかわらず、つい目の前にあったので買ってしまった。本屋の思惑通りである。この本はあっちにもこっちにも置いてある。「さおだけや」もまだあちこちに置いてある。保阪正康の「あの戦争は何だったのか」も相当売れているらしく、まだまだあちこちに置いてある。保阪正康が売れていながら、小泉の支持率が60%にもなんなんとするこの国がよく分からない。さて、その「下流社会」だが最初のあなたの「下流社会度」をチェックしてしまう。12項目のうちの7項目が該当。これでは過半数に該当と判断するしかない。確かに私は放っておかれたら終日机の前に座っているだろう。しかし、決定的にチェック項目のうち私が反するもののひとつは「地味で目立たない性格」である。これに合致とすると広く全方向から異論が来てしまうだろう。人前で話すことはしょっちゅうある。(しかし・・・実はそれは居直った果ての出来事なのであって、本当はあんまりそんなことをしたくはないのだ・・・誰にも理解はされまい・・・)。「食べることが面倒くさいと思う」ことは決してない。「ファストフードを食べる」くらいなら家に帰って自分で作って食べる。「未婚で」はない。え?これは若者が対象だ?ま、そうだろう。何たってこの本の話は団塊ジュニアの話だ。タイムリーな話題である。そうそう、この本の話が出たのは団塊ジュニア世代と呑んでいる時に出たのであった。
 「生協の白石さん」の類は私の好きなところなので、普通なら買うのだけれども、ベストセラー忌避者としては一度に二冊もそんなものを購入におよんでは沽券に関わるのでやめておいた。きっとすぐに古本屋に出回るに違いない。
 でも一冊だけというのもなぁ、と新書を見て回っているとまたもや保阪正康の「特攻と日本人」(講談社現代新書・2005-07)をみつける。実は最近講談社現代新書を意図的に避けていた。それは無機的な表紙カバーにしてからである。一斉に表紙カバーをあの特徴的だったものから無機質のものに換えて、もう一度停滞したものを売り出しにかかった時に薄っぺらな営業方針が見えてしまったような気がして、それに与しているのがイヤだったからである。そんなのどうでも良いじゃねぇの、というのが私の周りの本当に多くの声なんだけれど、頑なな私はだめなんである。
 そして、その「『特攻』と日本人」であるがのっけのまえがきの二つめのブロックの一節を読んで正に自分が高校生の頃から思っていたことをそのまま書いてあることに気づく。しかも目次が終わって本編になると保阪は知覧の特攻平和会館に出向き、「英霊論」「犬死に論」の両方を広げてみせる。わたしもここでこの両方を思った。そして語って見せてくれるおじさんの美化論には反吐が出そうだった。だから、それまで手にしては読み進むことが辛くてしょうがなかった特攻に出撃した青年たちの手紙がなんだか手垢にまみれて見えてき始めていた。これをどう結論づけていけばよいのだろうかと、時々洗面所で歯を磨いている時にホッと思ったりしていた。彼はここでその単純な二つの論ではなく、「新しい特攻論」を述べようとしている。不条理の中で条理を見いだした彼らを見つめようとする。
 保阪は何故これほど多作でいられるのであろうか。彼の著作を読むことで次から次に自分が整理しきれなかったもやもやした考えを整理できてしまうことが驚きではあるが、逆に悔しくもあり、このままではいけないと思わせる。