ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

古書展

 お茶の水の古書会館地下一階の多目的スペースで新宿古書店が昨日から開かれている。古書会館がどこにあるのかも知らずにもう何年ぶりかで御茶ノ水駅に降り立った。お茶の水橋口に降り立ったのは10数年もたっているかも知れない。地下鉄に乗っている時にどこか地方から来られたらしいおじいさんが山手線を使わずに新宿に行くのには神田で良いのか、とその辺の人に聞いている。変なことを聞くなぁと思った。
 東京駅から中央線でお茶の水に出る。この時点に至っても私はまだ山手線が止まっていることに気付いていない。なんと、とうとううちに帰ってテレビをつけるまで知らなかった。今日が仕事の日でなくて良かった。仕事の日だったら、たどり着けないといってまた家に帰っていたことだろう。
 お茶の水橋口から靖国通りに向かって降りていく。左側は「黒沢楽器」だけではなくて、他の楽器屋も連なって、何軒も何軒も楽器屋が並ぶ。バイオリン屋というのもあるし、アコースティック屋さんもあるし、勿論エレキ屋は何軒もある。その裏側はずっと今でも日大系。右側の明治大学は例のレインボー・タワーの上にあった校舎もこれはいったい何?!というようなガラス張りのビルになっている。随分変わったなぁと思ったけれど、一体何時と比べているのかと云ったらまぁ、40年前なんだなァたかだか、これが。オイオイ、そんな昔と一緒なわけないだろう!といわれるのが普通だと思うんだろうけれど、実はたったの40年な訳だよ。ここの街くらいのモンだろ。40年や50年でもうすかっりかわっちまうんだから。残そうという積もりはこれっぱかりもない。しょっちゅういじっていることが経済が活発だとでも思っているのか。そうだとしたら、そりゃあんた土建政治に毒されているって。
 途中から左に曲がって神社のところにまで降りていった。古書会館を探して、うろうろしているうちにとうとう靖国通りに降りた。しょうがないから靖国通りからまたお茶の水橋に上がる道をちょろっと上がるとその右手に「古書会館」と書いてあった。
 地下に降りるとクロークのようなものがあって、鞄をお預けするようになっている。そりゃいいや。誤解されることもないし荷物を持って歩く必要もない。しかし、籠だけは置いて欲しかった。途中でレジスペースの端に置いておいて貰ってまた捜すというやり方を採用。なぜか鶴見俊輔の著作は全く見つからず、自分が持っている本が一冊あっただけであった。彼の著作はこうしたところには出ないものなんだろうか。丸山眞男や、吉本隆明はいくらでも見つかる。
 と、いいながらも下記のものを入手。

  • 「ぼくは八路軍の少年兵だった」山口盈文 草思社 1994.04:著者は1929年生まれ。15歳の時に満蒙開拓青少年義勇軍として渡満。終戦後中国解放軍へ入隊。1956年に帰国。
  • 「証言日本占領史ーGHQ労働課の群像」竹前栄治 岩波書店 1983.02:占領期の研究といえば竹前栄治をはずしては語れない。証言とうたってあるだけあって、各章で初代労働課長のカルピンスキー、二代目労働課長のコーエン、法務局労働立法担当官のアッペル、労働課員であったメゾー、三代目労働課長キレン、労働諮問委員会議長のスタンチフィールド、そしてフーバー、デベラル、マッケボイ、ヘプラー、コレット、五代目労働課長のエーミスにまで至るというもので、大変なエネルギーが費やされている。それにしても前の持ち主が赤インキで傍線を引っ張っているのが煩わしてくてしかたがない。
  • 「戦後政治裏面史 ー佐藤榮作日記が語るもの」堀越作治 1998.12:著者は1930年埼玉出身、朝日新聞政治部次長。私は佐藤栄作が嫌いで、嫌いで許し難くて、あの男がなぜノーベル平和賞なんてものを入手してしまったのかときちんと解明してからでないと死にきれないような気がする。大げさか。しかし、岸信介佐藤栄作佐藤信二安倍晋太郎安倍晋三と繋がるこの線が気持ち悪くて我慢がならない。「榮ちゃん」と呼ばれたかったような奴が引退会見で「新聞は出ていけ!」なんていいやがって、あぁ、こいつはここまで常軌を逸してしまったのか、こんな程度の奴だったということだよなぁと思ったことを想い出す。
  • 「理解することへの抵抗」加藤典洋 海鳥社 1998.10:加藤典洋の発言、全三巻のうちのvol.3である。それぞれは講演会での講演のまとめである。
  • 「戦後日本の原点」上・下 袖井林二郎・竹前栄治 悠思社 1992.07:1993年1月8日の新聞赤旗に掲載された竹前栄治の「占領史研究会の二十年」という記事、1992年12月12日の朝日新聞夕刊の「占領史研究も新時代」という記事のスクラップが入っていた。赤鉛筆で傍線ひかれちゃっている。これは多分上記の竹前栄治の本の持ち主と同一人物のような気がする。
  • 「九人の語る戦争と人間」井出孫六本多勝一・粟屋憲太郎・竹前栄治・下村由一・四方田犬彦・田中日佐夫・若桑みどり・三宅明正 大月書店 1991.01:1989-1990の千葉大教養部での授業「戦争と人間」を元にしたものだという。常時200名が聞いていたという。そういえばうちの先生が主催した授業でもゲストスピーカーの言葉を全部テキストに変換してあるんだけれど・・。昨年の保阪正康立教大学における授業も録音されていなかったのだろうか。されていればテキストにして読みたいものだ。
  • 大佛次郎敗戦日記」 草思社 1995.04 1944年9月10日から始まる日記である。1995年4月23日のどの新聞だかわからない書評(評者:河谷史夫)の記事スクラップが挟まっている。終戦時47-8歳。なぜか14頁の「老年の知恵と残っている若さと均衡の取れた年代が大切なのである」というところだけ、まさにこの一ヶ所だけに黄色い蛍光ペンで印がしてある。
  • 「戦争と罪責」野田正彰 岩波書店 1998.08 野田先生がこんな本を書いているとは知らなかった。
  • 「旅をした人 星野道夫の生と死」池澤夏樹 スイッチ・パブリッシング 2000.02
  • 「ある昭和史 自分史の試み」色川大吉 中公文庫 1978.08 戦後三十年を記念して書いたものであるとあとがきに記してある。
  • 石橋湛山評論集」松尾尊○(ハの下に允)岩波文庫 1984.08

小川町から地下鉄に乗ろうと靖国通りを神田方面に歩くと、角の瀟洒なビルの一階の内装を崩している。あれ?!としげしげと見る。あれ!これって平和堂靴屋じゃないの・・・?うちに帰ってググって見るとあのさしもの「平和堂靴店」も先月一杯で閉店を余儀なくされていたようである。もったいない!なんということ!私が若い頃あそこの店で買ったあの靴、この靴。しかも裏の皮まで張り直して貰って履いた。総革の靴を履くような人はもういないのだろうか。そういえば銀座のワシントンだって、お店はついに地下だけ。上は全部ユニクロになっている。もう靴屋としては風前の灯火だろ?寂しいなぁ、もったいないなぁ、あれはやっぱりひとつの文化だったんだものなぁ。あれだけタッパのあるビルだから、下手するとパチンコ屋になっちゃうんじゃないかと心配。こんなことでいいのかね。
 地下鉄に乗ったら乗換駅を間違えて行きすぎてしまい、とうとう最後はタクシーになっちゃったんだものなぁ・・・。情けな・・・。