ほぼ足りてまだ欲 その先

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三十年前の話の特集

 昔買い続けていた雑誌のいくつかを友人の別荘に持って行ってあるのだけれども、先日遊びに行った時にいくつかをとりだしてチラチラ頁を繰っていたのだけれども、どうも面白い。「話の特集」の丁度三十年前、昭和51年の号を三冊ばかり持って帰ってきた。この年の表紙は横尾忠則である。十月号は集英社週刊プレイボーイの編集長をやった島地勝彦、十一月号は美輪明宏、十二月号はシドニーロームである。この年は田中角栄が起訴され、毛沢東が死んだ年であるらしい。この年の驚くべき企画は今月のワースト10と銘打った「話の特集不人気投票」であり、毎月その集計経過を発表する。10月10日現在の合計得票数によるワーストテンは昭和天皇笹川良一・榎美沙子・永六輔田中角栄児玉誉士夫五木ひろし宮本顕治中曽根康弘矢崎泰久である。良くこれで街宣車の集中攻撃を受けなかったものだと感心するのだけれど、実は受けていたのだろうか。
 小沢昭一の「わた史発掘」、永六輔の「芸人その世界」の他に中山千夏の座談会連載があり、危険のかおり一杯の花柳幻舟やら太田竜がいたかと思うと、十月号の五島潮太郎(いったい誰?)の「米人彦太郎(ヒコ)英人伝吉(ダン)」も面白く、小方悟が紹介するフランスの「無定泊者・ジタン」の記事と写真が興味深い。そうかと思うと中島丈博の「アブダラよ」なんていう20頁に及ぶ小説が掲載されているが、この辺なんかは自分では全く記憶にない。
 十二月号を持って帰ると思ったきっかけの記事は「畏れ多くも天皇陛下様の・・・、未帰還兵・藤田松吉の場合」という内山二郎の報告を読みたかったからである。1974年5月にタイで藤田と会った時の聞き書きをもとにまとめたとその文末に記載してあり、今村昌平監督のドキュメンタリー「無法松故郷へ帰る」は藤田が34年ぶりで里帰りをした時のドキュメンタリーであるとしてある。
 このころの小沢昭一が書いたものを読んでいると「三十年の間に、喉元すぎて熱さを忘れ、いま、再軍備論がまかり通る。曰く、世界中で軍隊のない国はない。曰く、スイスは永世中立国だが、軍隊は充実。曰く、自分の国を自分で守るのは当たり前。曰く、妻子が力で襲われた時、あなたは黙って見殺しにするのか」「第9条はサルマネ日本にしては、唯一の地球史の先読みができた壮挙であった」と書いてある。まだまだ小沢は死ねないらしい。
 もう一冊持って帰ってきたのが1981年の十一月号である。なんでかというとこの年台湾での飛行機事故で亡くなった向田邦子と「話の特集」の矢崎泰久編集長が、二月に行った公開対談の後半を一挙25頁にわたって掲載しているからだ。実は私は向田邦子のことを全く知らない。もちろん、彼女が著名な作家であることは知っていたけれど、とにかく小説の類を全く読まなくなってから何年も経つからだろう。たまたまこうした号を見つけたので読んでみようと思ったからである。それにしてもこのころの雑誌は活字が小さくて、この年になると読むのが辛い。かつてゼロックスの宣伝で「新聞もこれくらいの活字で読めると良いんだけれどねぇ」という拡大機能を強調するものがあった。あの後からではないだろうか、新聞の活字が軒並み大きくなったのは。