ほぼ足りてまだ欲 その先

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東京大空襲62年後

 3月10日未明の東京大空襲から62年が経った。さぞかし怖ろしい晩であっただろうことはおおよそ想像することができる。しかし、それは私がそれから2年半後に、つまり戦争が終わってからそれほどの時間が経たずして生まれているということと関係があるのかもしれない。自分が幼かった頃、母親が近所の人と話をしているのを聴いていると「それじゃ、大震災の時はどちらだったの?」とか、「空襲の時はどうしておられたのか」と云った言葉は挨拶代わりのようなことだった。子どもたちが遊んでいる時に誰かが透明なガラスのようなんだけれど、こすりつけるとほのかな匂いが出るものを持っていてそれを宝物の部類に分類していた。あれは飛行機の風防に使われていたものだと聞いたけれど、本当だったのかどうかは知らない。庭の片隅をスコップで掘り返すと埋めて隠してあった瓦礫が出てきてしまったりした。隣との間に立ててある塀に開いた穴は焼夷弾が貫通した痕だといわれた。夏草に覆われた崖に探検のつもりで分け入ると、横穴が開いていて、奥に続いている。自分たちはまるで「宝島」の探検のつもりでいたけれど、大人たちにとってはあんまり思い出したくない防空壕だった。東京大空襲では十万人以上が死亡して、百万人以上が家を失ったという。それで終わりである。残ったのは瓦礫の山だ。そこに板っきれと鍋釜を拾い出して火をおこし、なけなしの食糧を水増しして糊口を凌ぐ。親を失ってしまった子どもたちは一体全体どうやって生き残ったのだろうか。人のことなんて構っている余裕もない。親を戦争で失った人たちもそこいら中にいたわけだ。
 しかし、職業軍人でも徴用軍人でも1952年に日本が占領から解放されるや否や1953年に「戦傷病者戦没者遺家族等援護法」が成立してその補償が行われるようにまたなった。日本労働年鑑「第27集1955年版第三部 労働政策第六編 社会保険および社会保障」に緒方国務大臣がおこなった提案理由がこのように掲載されている。

「旧軍人軍属及びその遺族のかたがたの恩給をこのような状態に放任し、戦争の責任をひとりこれらの人々のみに負わせているかのような状態にしておくことは好ましくない」「旧軍人軍属及びその遺族に相当の恩給を給すベきものと認め、特に遺族、重傷病者及び老齢者に重点を置いて給すべき恩給」

と、説明している。今から考えてみれば補給、兵站という概念を持たず、それでいて「虜囚となる」なんて恥知らずな行為は大和魂を沸々とたぎらせている皇民としては許し難い状況にあったのだから、どんどん兵力は消耗せざるをえなかった。だから、多くの若者、あるいはそうでないものまでもが「撃ちてしやまんの気概を持って」と教えられ、本当に心の奥からそう思い、国を守るために犠牲となった。だからその家族にも手厚く支援をさしのべてきたのである。しかし、全国各地に米軍が行ってきた徹底した絨毯爆撃によって軍人軍属でもない人たちもどんどん死んでいった。
 しかし、3月10日の東京大空襲では本来銃後にいる多くの民間人が命を失い、頼るべき大黒柱を失った。「政府は軍人軍属とその遺族には戦後補償をしているのに、民間人犠牲者に対しては援助をしなかった。戦争被害は等しく国民が受忍するとの論理を民間人にだけ適用するのは、憲法で定められた法の下の平等に反しており、国が被害者を放置した責任は重い((東京新聞))として、東京大空襲で被害を受けた負傷者や遺族ら112人が9日午後、国に総額12億3200万円の損害賠償と謝罪を求める訴訟を東京地裁に起こすという。外地まで派遣されていたこと、一体全体どこでどの様になって死んだのかわからないどころか、その遺品すら回収されないという惨めな思いをした人たちと、本土にいつまでも残っていられた人たちではその立場が根本的に異なる、ということなのだろうか。それとも、全国民がそれぞれの立場でそれぞれの状況にあって苦労をしたのだからそうでない人との間に境界線を引くのは難しいからなのだろうか。それとも遺族会という大票田がそこに既に構築されていたからなのか。
 爆撃をした米国に、この大きな被害を広島、長崎を含めて訴え続けることも必要だろう、しかし、その時は同時に私たちも重慶についてお詫びをしていかなくてはならないのだろう。ひょっとするとあれも例によって「勝手に作られた被害」なのだろうか。
今の若者たちが空襲を想像できるのだとするとどんな風に想像をすることができるのだろうか。