ほぼ足りてまだ欲 その先

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75年

 今年は「あれから75年」の連続だ。今日は東京大空襲から75年になった。寒い夜中にあちこちから空襲を知らせるサイレンの音が聞こえて、B-29約300機の大編隊が「ごぅごぅごぅ」と大きな音をたててやってきて、約1,700トンの焼夷弾が「ひゅぅぅひゅぅぅ」と不気味な音をさせて落ちてくる。想像を絶する恐ろしさだ。自分では経験したことがなくても、想像しただけで怖い。あちこちから炎がたち、ぶんぶんと風が吹いて燃え広がってくる。
 疎開していた子どもたちが、疎開先から東京の方の空が真っ赤になっているのが見えていたという。それほど燃えていた。そして、多くの人たちが逃げても逃げ切れず、無残にも焼け死んだ。逃げ込んだ建物がそっくりそのまま蒸し焼きになったりしている。内地人だけではなくて、朝鮮半島からやってきた、労働者も多く焼け死んだ。連合軍の捕虜となった兵士も犠牲になっている。なにしろ無差別爆撃だ。この作戦の為に米軍は日本の家屋を徹底的に研究して、焼夷弾を開発した。戦争は新しい技術を開発する。この技術はナパーム弾となって、ベトナム戦争では多くのジャングルとベトナム人を殺しまくった。
 軍に徴用された人たちや職業軍人が死んだら、遺族には恩給が出た。空襲で死んだ市民の遺族には年金なんて出なかった。誰も彼も戦争で苦労したのはしたんだから、という理屈が良く語られる。しかし、親が死んで取り残された子どもたちは、そのまま放置された。放置されただけじゃない、多くの市民からは、「戦災孤児」と呼ばれて邪魔者扱いされた。アイツら悪いことするから、といっていたが、そうせざるを得なかったのだ。そうしなくては生きていけなかった。汚い格好しかできなかった、着の身着のままで暮らさざるを得なかった。それは今でもそのままだ。75年間、なにも変わっちゃいない。


追記:無差別爆撃に関しては日本は人のことをいえる立場ではない。重慶空襲を忘れていないか。