ほぼ足りてまだ欲 その先

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今更の相撲話

 子どもの頃は大相撲の本場所は一年に六場所もなかったと記憶している。どうやら年四場所開かれるようになったのが昭和28年(1953年)で五場所になったのが1957年、そして翌年に名古屋場所でも開くようになって六場所になったと記録にある。道理で妙に相撲の本場所も忙しくなったものだと思った訳で、私が物心ついた頃は年に三場所しか開かれていなかったということである。
 私が小学校に入学したのが1954年で、小学校三年生の時、1957年の初場所が生まれて初めて本場所を蔵前国技館に見にいった場所である。当時私は学年の中でも小さい方で、朝礼で並ぶといつもクラスの一番前か、前から二番目だったから、細くて、見るからに弱々しいながらも幕内を張っている「鳴門海」という相撲取りが好きだった。というよりも、弱々しいところは見るからに私の側の人間で、そうそう勝てるタイプでもないのに、しつこく食い下がって、食い下がって、それでも勝てないのにやっているところが健気であり、「くそぉ〜っ!」といいながら圧倒的不利の中で生きていくところが泣かせる正義感、という雰囲気があって大好きだった。
 ところがこの感情というのは無条件で不利な中に自ら飛び込んでいくという、感情のおもむきだけで全国民を巻き込んだ旧帝国陸軍の愚直さに通じるところのある危険な匂いを醸し出す。もちろん「鳴門海」自身がどんな人柄だったのか、全く知らずに、ただただか細い体つきで立ち向かうその健気さだけでファンだったといって良いだろう。
 この鳴門海がこの日、何と私の目の前で鏡里に結びの一番で勝ったのである。これを喜ばない、印象に残さない訳がない。とても寒い日で、手あぶりを手をかざしながらこの結びの一番を待ったことを想い出す。
 当時は勿論テレビなんていうものがわが家になかったから、本場所となるとぴーぴーがぁーがぁのラジオで聞いていた。前にも書いたけれど、当時の相撲の仕切り時間はやたら長かったような記憶である。なかなか立たない。制限時間いっぱいになると今と同じように呼び出しが立ち上がって時間がきたことを知らせる。すると観客がいよいよ立つぞというので、途端に歓声が上がり始める。その声の盛り上がりでラジオを聞いている方は「おっ、立つぞ」と動かしていた手を止めて耳をじっと傾けるという訳である。私はいても立ってもいられなくて座敷の真ん中の畳のヘリの四角をぐるぐる回っていたり、自分が力士になったかのように塩を撒く真似やら仕切りの真似やらをやって時間が来るのを待つ。なのに、あっという間に終わったりする。次の日の新聞が楽しみだった。場所がいよいよ始まるという頃には新聞に番付表に15日分の(昔は13日だったというが)○を書いた付録が挟まってくる。それに毎日ラジオを聞きながら負けた力士の○を塗りつぶす。
 その頃の力士は本当に話し下手で、今のようにインタビューなんかないし、たまに金星を挙げた力士がいると支度部屋でマイクを向けられても、息が上がっちゃっていて「そうっすねぇ・・」しか聞こえなくて、ウブなひたむきという感じがしたものだ。引退した栃東がその最後の力士だったといえようか。
 それが今やどうだろう。みんな話は上手いし、舞の海みたいに好感度抜群で、親しみやすい。しかし、テレビカメラに向かって「どうだっ!」とガッツポーズでもしそうな力士が幅をきかせるようになってから、私は相撲にすっかり興味を失ってしまった。それと同時にニュースでも、BSでも相撲がテレビに取り上げられる時にはチャンネルを切り換え、避けて見ないようにしてきた。だからもうここ何場所もまともに見ていない。
 だから今度のこともどうでも良いのだ。だけれどもここまで来たら黙っていられなくなった。協会が、そしてファンがあんな行動を許し続け、勝ったらワァワァ歓声をあげ、これでもかこれでもかというはしたない取り口を「豪快ですねぇ〜」なんて放送したNHKのアナウンサーにも責任はある。調子に乗るな、この野郎!となんでいわないでここまで引っぱってきたんだと思う。だから世の中を甘く見てきた彼も悪いけれど、それをヨイショしてきた周りも悪い。
 それにしても「このままではすぐに鬱病になる」といっているあの精神科医産業医で、挙げ句の果てに美容外科医だと仰るお医者さんは本当に信用できるのか。セカンド・オピニオンを求めるべきではないのか。本人はあれから一度も表に出てきていない。このまま日本の国技とかいっている団体は良いように手玉にとられてチャン、チャン、なのだろうか。