ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

窒息

 小学校5年生の時、その小学校、えぇい面倒だ、実名を出してしまえ、清水市立三保小学校(今では静岡市立清水三保第一小学校)は、当時とっても広い自然の土のままの校庭があって、授業前も、放課後も、グローブを持った生徒で賑やかだった。ソフトボールが大流行だったのだ。学校の代表チームが作られて、駒越小学校と試合をしたりするくらい。何しろ校庭の外れに教職員用の住宅が2-3軒建っていたくらいだ。
 ある日の放課後、校庭の一角で三角ソフトボールをやっていた。するとそこへ他のクラス連中がやっているソフトのボールが飛んできた。隣に立っていた同級生が、そのボールを拾って返すのに、投げるんじゃなくて、持っていたバットで打ち返した、ま、ノックみたいなものだ。
 するとそのバットが私の腹に思いっきりあたった。あっと思った時にはもう既に呼吸が止まった。息を吸い込もうとするのに、横隔膜を下げることができなかったのか、「うっ、うっ」というだけで、全然息が入っていかない。あぁ、これで死ぬのかな、と思って校庭に転がって七転八倒しているうちに横隔膜が下がって、一気に空気が入った。人間は簡単に死ぬな。腹を蹴られて転がる場面はこれだったんだ。

 そういえば4年生の時の担任の高橋先生は、国体に出るとかで、誰もいなくなった校庭で竹の棒を思いっきり投げていた。やり投げの練習だったそうだ。そんなんで本番にいって投げられたのかなぁ。多分彼は教育大学あたりの出身だったと思う。正に1957年は静岡国体が開かれた年だ。
 この高橋先生はとてもアイディアマンの、今から考えれば熱心な先生で、毎日給食の時間に10問の漢字書き取りをさせていた。しかし、ただ、問題を配って書かせて採点するだけではない。彼はそれを相撲の本場所になぞらえて毎日対戦相手を決めて勝敗をつけさせた。そして15日目の結果を用いて、優勝者を決めた。その賞品は、先生が手彫りした盾、そして先生が書店から貰ってきた余った学習雑誌の付録。
 先生がアイディアマンだったのはそれだけではない。横浜から転校していった私はこまっしゃくれていたから、漢字書き取りで、クラスの中でダントツだった。そのままにしておくと、私が今の白鵬のようになってしまうから、目先の利いた私を昼飯時の放送係として特命し、全校からただひとり、放送室から昼の音楽を流す係をやった。私は休場が続き、漢字書き取り場所の優勝連覇はできなくなったけれど、その代わり、全校からただひとりという栄誉を受けたわけだ。つまり、簡単に先生の策に嵌まった。あれから、高校に入ってからも放送部に籍を置いていたことになる。

 う〜む、これは一体何を書きたかったんだろうか。