ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

健気(けなげ)の反対は「鼻持ちならない」

 もう死語になった。殆ど聴かなくなった。原爆後の広島で米軍のカメラマンが撮った写真に弟か妹かをひもでおぶってきりっとしたまなざしで前を見据えている少年の姿を思い出す。
 次の世を支える子どもになるんだと、皇后陛下の歌に支えられ、親元から離れて陛下のために学童疎開に出かけるのだと意を決する昭和一桁生まれの子どものまなざしを見よ。戦後ほぼ疎開生活を振り返りたがらない彼らの心情を慮らなくてはなるまい。永六輔はあからさまに学童疎開期を忌み嫌っている。
 その気持ちは少しだけ転校してひとり全く縁のない学校に乗り込んだ時のあの気持ちに近いものがあるのかもしれない。

 尤も、私は都会からやってきたすこし線の細い、しかし、少しどころかかなりませた少年として多少脅かされることはあっても、目端が利いて何しろ圧倒的に知識豊富な少年の役どころを与えられて得意満面だったかもしれない。
 到着から二、三ヶ月は健気だったかもしれないが、それから先は「鼻持ちならない」状況だったような気がする。放送委員を言付かって昼休みの音楽を放送室から流す役を得て、得意満面だったのだけれど、今から考えるとそれは私を時として昼休みの教室から追いやる手だてのひとつだったようだ。
 当時、私の組の担任だった高橋先生は子どもの漢字の読み書きを鍛えようと毎日十題ずつの問題を昼休みに課していた。それは15日間連続して行われ、毎日対戦相手が決まっていて、点数で勝敗がきまり、優勝者が決まる。終わると番付表が改正される。つまり漢字相撲なのである。しかし、そのままにしておいたら毎場所私が優勝してしまいそうだったから、週に一回当番が廻ってくる放送委員会という役割を与えられてどうひっくり返っても必ず2休となった。私は大変に不満だったけれど、槍投げで国体に行った高橋先生としてはとても良いアイディアを思いついたといって良い。
 しかし、これはただ単に私がこまっしゃくれたガキだっただけの話で、3年後元に戻ってくると今度はまわりの学校の勉強はずっと先に行ってしまっていて、びっくりするほどにおいていかれている事に気付くのだった。当時の小学校はそんなに地域差があったという事か。しかし、帰ってきた時は既に中学生となっていて、「健気」という言葉とは全く縁のないひねくれガキと成り果てておった。