ほぼ足りてまだ欲 その先

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転校

 もう何度も書いていることではあるのですが、私は小学校に三つ行きました。転校です。オヤジの転勤です。すべからく転校というのは一気に異次元空間といっても良いほどの環境の変化をもたらします。それは天変地異といっても良いほどです。しかし、ひとりで立ち向かうしかないのです。
 最初は小学校4年生の2学期が始まってすぐです。横浜から清水の三保へ転校しました。多分オヤジは既に赴任していたのでしょう。夏休みが終わってから家族は引っ越しました。私が小学校入学前に暮らし始めていた家をどうするのかと思っていたら、オヤジの従兄弟一家が住むことになりました。
 その頃、そのオヤジの従兄弟、だから私にとっても親戚には違いありません、は鉄関連の会社に勤めていて、確か川崎あたりの社宅だったのか、当時としては珍しい鉄筋コンクリートのアパートに住んでいました。家族で遊びに行ったのか、両親と私だけでいったのか、そのうちに行ったことがあるのですが、私より一歳下のそこの息子が親たちに混ざって麻雀をうっていたのにびっくりしました。何だか、エラい大人に見えてしまったんです。彼は後年一流大学を出て、オヤジが働いていた会社の親会社に就職したと聞いています。彼もとっくに爺になっているのでしょう。
 転校先の小学校に初めて行く日、私はよそ行きの格好でおふくろに連れられて学校へいきました。当時、横浜の子どものよそ行きですから、半ズボンに、小生意気にもぴかぴかのチャッカーブーツです。と書けば格好いいですが、昔の子どもが履いた典型的なよそ行き靴ですね。
 学校では運動会の練習なるものが全校を上げて行われていました。落ち着かないことおびただしい状況です。多分校長室にいって挨拶をして、担任の先生に引き合わされ、そのまま校庭に連れて行かれたんだと思います。気がついたらその格好のまま、運動場でこれから同級生となる子どもたちと一緒に走らされておりました。
 そんな革靴で走るのはむちゃくちゃ走りにくいのですが、そんな格好でやってきた新参者は目立つことこの上ない存在ですよ。だぁれも話しかけてくるわけがない。見るような見ないような視線がツンツン刺さります。それでも「大丈夫なんだぜぇ〜」風を吹かせます。足はブルブルです。
 その日、それからどうしたのか、まったく記憶がありません。多分人間は思い出すのがイヤなことは極力埋め込もうとするそうですから、出なくなっているんでしょうね。なんかのセラピーを施されると、出てくるかも知れないですね。
 その日の帰りだとは思いませんが、そんなに経っていない頃、学校の帰りにすぐ傍の神社まで来ると、体格の大きな少年が来て「わりゃ、どこんくみだぁ」といいました。どこの組に来たんだと聞いているんですが、この「われ」がわかりません。吾だったら自分のことじゃないのか、ひょっとすると彼は「俺はどこの組か?」と聞いているのかと思ったのですが、そんなはずはない。だから、消去法でこれは「お前はどこの組に来たのか」と聞いているんだと判断するに至りました。この顛末だけは覚えているのです。
 担任の教師は高橋先生といって、若々しい先生で、なんでも国体でやり投げに出るといっていたことを覚えています。夕方、校庭で遊んでいた小学生を校舎の中に入れて、竹の棒を思いっきり投げる練習をしたのを覚えています。それをやりに見立てていたのでしょうねぇ。それ位、この小学校の校庭は広かったのです。小学生のソフトボールだったら4面ぐらいとれました。
 今から考えるとこの高橋先生はとっても独創的な人で、毎月のように漢字書き取り場所というものを考案したのです。その期間、15日の間対戦相手を前日に発表して給食が終わったあとで10問の書き取り問題を出します。で、正解が多かった方が勝ちというルールで、相撲の本場所のように星取り表を教室に貼りだしています。で、優勝すると、高橋先生が自分で彫った盾が授与されます。これは回り持ちなのですが、副賞があります。これが魅力的。小学生用の雑誌に挟まっていた付録一式です。小学館なんかが出していた雑誌には思いっきり膨れるくらい、付録が挟まっていて雑誌は紐で括ってこぼれないようになっていました。多分学校の前の文房具兼本屋で余ったものを先生が貰ってきているんだと思います。
 私は都会の学校からやってきたわけで、小生意気な連中の中で育っていたわけですし、口から生まれてきたのかといわれていたくらいに良く喋るくらいですから要領はいいし、漢字の書き取りだったら任せておけって位だったので、連戦連勝。翌日の取り組み発表で、私と対戦することになった子は「あれぇ〜!」と叫ぶというくらい。とうとう優勝です。嬉しかったというか、多分得意満面だったのでしょう。
 高橋先生は危機感を持ったのです。このまんまだと毎場所こいつにやられてしまう。みんながやる気を失ってしまう。どう解決すれば良いのか。先生はどなたかにご相談なさったかもしれませんね。次の場所から、私は放送委員会のメンバーになりました。自分からやりたいといいだしかねないですけれど、そこはどうだったかわかりません。その放送委員会は委員が順繰りで昼休みの放送当番があります。その場所、私にはその当番が回ってきちゃうわけです。漢字相撲は休場って事になります。その時は、あぁ、悔しいなぁ、これがなければ優勝するのに!と思っていましたけれど、これはひょっとするととても上手い白鵬撃退法だったのかもしれません。大相撲も研究すると良い。
 冬になった頃です。学校の帰りに車が通る道ではなくて、家に帰るのに近道になる槇の防風林に囲まれたような裏道を歩いていると、前方によそのクラスのジャイアンが手下ふたりを連れて立っていました。生意気だと難癖をつけてきました。そりゃ気に入らないだろう。どこから来たんだか知らねぇけんが、なにぃエラそうにしてるだ!ってわけです。殴られた記憶はないけれど、多分なんだかんだと言葉を交わすうちに大人がやってきたんじゃないでしょうか。狙われていることだけはわかりました。
 子ども心に学習したのは郷に入ったら郷に従うことでした。どんどん「オ〜イ!どこいくだねぇ〜」「いや、こまるよぉ〜」と方言を多用。間違っても最初の頃のように相撲のことを「お相撲」なんて女っぽい言い方をしちゃならない。段々身につき始めます。
 そうなるとどんどん馴染んできます。どこから探してきたのか、中古の子ども自転車を買って貰ってすぐ上の姉と近所の空き地で練習をして乗れるようになりました。あの快感は忘れられません。するとクラスの仲間をつのって、学校から帰ってきたら自転車で集合。久能山までツーリングです。自転車を山の下に置いて、あの階段を駆け上がったりして、どんどん地元の子になっていきます。
 学校から帰ってきたら竹竿を持って裏の折戸湾にいってハゼを釣ります。なかなか釣れません。そりゃ釣れないよ、その辺の小さな牡蛎を拾ってそれが餌なんだから。上から餌も魚も見える岸壁に貼り付いて周りが暗くなるまで覗き込んでいました。
 極めつけは小五になった夏休み。毎日のようににぎりめしを持って海にいき、とうとう「どれくらい泳げるんだ?」と聞かれたら「体力がなくなるまで」と答えるくらいになりました。実際、泳げるようになってから、それまでの10m泳げるようになったら帽子に黒線一本!なんてのがバカなような気がしてきました。
 当時、三保の子どもたちは赤ふんを締めました。赤い晒しの布を自分で締めるんです。しかし、その赤褌で泳ぐわけじゃないんです。その上から海水パンツをはく!今から考えると、なんなのか、さっぱり理解ができません。海水パンツだけでは、男らしくないという気持ちといえば良いんでしょうか。そうかといって赤褌だけじゃない。奇妙ですなぁ。都立九段高校が当時は臨海学校で赤褌で泳がしていたということをあとになって知ります。
 三保の小学校では6年生になると、夏休みの締めくくりに遠泳大会がありました。三保の真崎から出発して、対岸の袖師の浜へ行って帰ってくるだったか、グルッと回ってくるだったかという壮大な遠泳です。その程度しか船の出入りがなかったのでしょうか。今だったらとても危険でそんなことはできませんが、その前にもはや水質がどうか、潮がどうかというところでしょうか。
 楽しみにしていたのですが、なんと6年生になるときに、またもや転校することになったのです。