ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

ヒストリー・チャンネル

 たまたま一休みにテレビをつけたらヒストリー・チャンネルで1958-1960年の「日本映画新社制作」のニュース映画を見ることが出来た。当時の私は小学校高学年から中学一年。ニュース映画というものは映画館で上映されていたけれど、当時は毎週新しい映画がほぼ二本立てで封切りされていたから、ニュース映画も毎週新しいものが上映された。全部モノクロだった。
 1958年の話題はもちろんトップは正田美智子さんだったんだろう。
 4月に金環食があったというのはわずかに覚えている。ガラスを蝋燭にかざして煤をつけて太陽にかざしてみた。あれから後何回もこうしたことをやって太陽にかざした記憶がある、日食でもないのに。私が当時住んでいた家では金環食になったわけではないだろうが、木々の新緑に映える葉の影がその時に見えた太陽の形になっているのに気がついてとても不思議な気がしたことを想い出す。今年は7月に奄美大島金環食が見られるらしい。
 売防法もこの年だ。それがざる法のまま制定されて今に至るまで風営法が何回か改正されてきたけれど、ま、有り体にいえばそのままの様なものだ。
 エリザベス・サンダー・ホームから何人かの子どもが米国に養子として出発した様子が映し出される。そして各地のこうした子どもたちの様子が映る。彼らは多分私たちと同世代に違いない。皆さんどんな人生を送られたのだろうか。今井正監督の映画「キクとイサム」に出演した二人の子どもも映し出される。新聞記者・三国連太郎とカメラマン・高原駿雄が出演したと訊くと何やら見た記憶もあるけれど、全然思い出せない。高原駿雄はテレビドラマ「日真名氏飛び出す」で「あわてだいさく(漢字が思い出せない)を演じた役者だ。
 1959年になると勿論そのトップはご成婚だが、投石した少年が映し出される。19才の少年だというのは知っていた様な気がするが彼はその後どの様な人生を歩んだのだろうか。翌年社会党の浅沼稲二郎を白昼堂々日比谷公会堂で刺し殺したあの山口乙矢の名前は覚えているけれど、この少年の名前は全く記憶にない。
 翌年1960年は圧倒的に「安保闘争」の年である。岸信介退陣。この時に「声なき声」というセリフを使う。“支持する人たちの声”という意味で彼はこの言葉を使ったのか。
 この年、炭鉱は疲弊する。国鉄直営の炭鉱が存在したことを知る。明治22年に開鉱された志免炭鉱は戦後運輸省所管となり、その後国鉄の炭鉱となったそうだ。エネルギー転換で日本の炭鉱は次々に見捨てられる。岸から池田勇人になって倍増計画となるが、それに伴って一次産業から二次産業にその焦点は移され、政策的に転換を余儀なくされた。つまり今日の食糧自給率の低下はこの頃からその路線を突っ走ってきたことになろうか。
 今からおおよそ半世紀前のことだけれども、ほとんど忘れてきている。こうしたフィルムをレビューするということは重要だろうなぁ。