ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

ずぅ〜と昔からある

 NHK BS-2の「日めくりタイムトラベル」なる番組を途中から見た。どうやら月に一度、原則第2土曜日の20時〜23時となっているのだけれど、これまでの実績を見ると第二土曜日と限っているわけではなさそうだ。ちなみに次回は5月9日(土)で平成元年(1989年)がテーマとなる。
 ミッキー・カーチス、ホンコン、大澄賢也あたりが「つまんねぇなぁ〜」という顔をしているのがぱたぱた映る。よっぽど収録時間が長かったのか、夜遅くの収録だったのだろうか。そんな中で桐島ノエル、藤田朋子の爽やかさに救われる。なにしろ今日のテーマが昭和40年、1965年だったんだからレポートする人は頑張るが、当面大して縁のない人には相当つまらんだろう。


 私にとっては当時自分が高校三年生の年だったからまさにど真ん中直球で面白かった。藤田朋子のレポートはエレキブームの話で、ベンチャーズからモズライトを譲り受けたというおじさんが以前に先輩のライブに出てこられてそのモズライトを観客に見せた同じ方だった。驚きはしなかったけれど、面白かった。あぁ、あのおじさんだ!と。二年前から再結成したんだそうで、本当に世の中復活ビートルズコピーバンド、復活ベンチャーズ・コピー・バンドで溢れかえりそうだ。中にはおっさんシャドウズ・バンドの集まりなんてのもあっていくつものバンドが出るのだけれど、曲目を調整して、みんなの演奏が重ならないようにするというのだから、みんなものすごいエネルギーを費やしているのだ。
 エド山口モト冬樹の兄弟も出てきてコメント。当時の新聞、「エレキは不良の巣窟」「エレキ禁止」は懐かしい。当時都立高校三年生の私が初めてバンドを組んだのがまさにこの年だったと思う。バンドの名前はThe Prodigal Sonsといった。リードギターサイドギター、ベース、オルガン(学校にあった足踏みオルガン)、ハイハットとスネアだけのドラム。アンプはグヤトーンの15wくらいのが一台あっただけ。それでビートルズ、スパイダーズを演奏した。多分7曲くらいしかレパートリーがなくて、それでも土曜日の午後、学校の講堂に三年生の仲間を集めて多分あの学校始まって以来のエレキ・バンド・コンサートをやった。みんな学生服や白いシャツのまんまである。今だったら「べ平連に加わってベトナム戦争反対を叫べ!」と自分にいうかも知れないけれど、それでも私にとっては十分なまでの体制に対する攻撃だったつもりだった。
 当時の私にとってのさしあたっての「体制」は学校の生活指導教員だった。生徒会総会で議長だった私は学校側の見解を質す質問に対して生活指導教員がやおら「そういう屁理屈はだなぁ!」と胴間声を上げたときに、「議長は未だ発言者を指名いたしておりません!」とやって喝采を浴びたけれど、その教員には狙われていた。それでも隙を見せたことは一度もないから、何もいわれなかった。しかし、未だに理解ができないのは、なぜあの土曜日午後のエレキ・コンサートはなんの障害もなく、勝手に開くことができてしまったのだろうかという点である。
 あの年の秋の文化祭では、教室を借りて演奏会を何回か開いた。朝早くいって練習したのを覚えている。その時に全ての楽器のチューニングをしたのは高校三年間同級生だった友人で、彼は絶対音階を持っていたから、チューニングのための道具を一切使っていなかった。当時彼と一緒に明治学院大学の文化祭に森山良子のグループが唄っていたのを見に行った。イヤ、多分偶然いったら唄っていたんだと思う。すると彼はそのベースの三弦が四分の一音狂っていると指摘するのだった。彼は大学を卒業してから、調律師をしたり、録音スタジオを経営したり、テレビ番組の音楽を提供したりしていたといっていたが、70年代の前半にビートルズのカラオケレコードを買ったらそこに彼の名前がクレジットされているのを見てびっくりした。もう十年近くあっていない。どうしていることだろう。
 さて、閑話休題。そのレポートをしていた藤田朋子(彼女は1965年生まれ)が「私はずっと前からエレキはあったんだと思っていたけれど、日本のエレキの始まりがこの辺にあったと聞いて、案外新しいんだと思った」という。そうか、若い人(彼女だって私から見れば充分若い)たちにはそう見えていたのかと、逆に一種の感動だった。この話題は早速明日使わなくては。
 それにしてもこの種の団塊世代狙い番組は増えているような気がするが、地上波はどんちゃん騒ぎばっかりだ。