ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

 私は子どもの頃から歌が好きだった。「歌う」のが好きだったのかな。それは多分に母親の影響だろうと思う。女子師範を出て、小学校の教職に就いたこともあった母親は私たちが子どもの頃に家にオルガンを持っていた。足踏み式のオルガンだったが、学校の教室にあったような、単純なオルガンじゃなかった気がする。多分、母親はピアノが欲しかったんだろうけれど、戦後のあの時期では買えなかったのではなかっただろうか。近所の家でピアノがあったのは、お医者さんの本田さんの家と、大企業の副社長だった井上さんのうちだけだった。なにしろ武満徹はピアノがなくて、紙に描いた鍵盤だったという。ピアノを借りる事ができたけれど、それも払えなくて返した結果、黛敏郎からピアノをもらったというくらいの時代だ。
 一方、唄はへたくその極地だった親父も、私が成長して物心がつくと、わが家の電蓄の横にあったキャビネットにはSPのベートーベンのアルバムが二、三冊横積みにしてあったから、一応興味はあったのだろう。
 そんな母親の血はすぐ上の姉と私に引き継がれた。不思議に一番上の姉には引き継がれることはなかったようだ。小学校の時から、音楽の時間になると、誰よりも大きな声で歌っていた。とにかく大きな声がその時から出ていた。みんながそうして歌わないのが不思議でしょうがなかった。学校の合唱に入ってもすぐに「みんなと合わせて」といわれる始末だった。独唱コンクールに行ったこともあるけれど、肝心なそこでは声変わりが始まっていて、上の方で音がひっくり返って、恥をかいた。
 中学では歌うチャンスはほとんどなかったような気がする。音楽の時間の記憶が全くない。理論ばっかりで、都立高校の入試対策の譜面の読みばかりでつまらなかった。かろうじて、学校のシロホンに手を出した記憶ぐらいだ。あの学校にはブラスバンドもなかった。もっぱら土曜日の午後のフォークダンスに勤しんでいた。
 高校も元はといえば女子校で、合唱部は有名だったけれど、女性コーラスだった。ブラスバンドもなかった。ここでも音楽の授業の楽しい記憶がない。音楽室の棚の上に置かれている音楽の巨匠たちの石膏像が気味が悪かった記憶だけはある。ここにはピアノの練習室というのがあって、2−3台のピアノが個室に入っていた。これの鍵を借りて、友人が弾いて見せるのを見ていた記憶がある。彼の家には洋館の応接室にもちろんピアノがあって、流麗に弾いて見せたが、驚くことに、彼の家の庭には当時としては大変に珍しい体操競技用の高鉄棒が設置されていて、彼はこれで大車輪なんぞをやって見せた。そんなだから彼は学校でもちょっと知られた存在だったけれど、彼はそれで有頂天になるようなタイプではなくて、淡々としていた。その彼が影のリーダーとなって、高校初のエレキバンドができた。もちろん私は一枚加わって、ドラムと唄で始まった。ところがすぐに思いもよらなかった同級生がおずおずとやってきて「ドラムをやらせてくれ」という。ならばと唄専門になったのだけれど、当時はもちろんまずベンチャーズだから、出番がなくなった。それで今でいうMCもやった。
 だから、ほとんど大学生になってから、ようやく人前で歌うようになっただけだ。
しかし、ある時から気がつくとエルビス・ファンだったすぐ上の姉は衣装にまで凝って人前でエルビス・ナンバーを歌っていた。
それで、うちのお墓は普通に家の名前を彫ってあったんだけれど、「楽」一文字に彫り直した。