ほぼ足りてまだ欲 その先

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要チェック

 古物建物好きとしてはこの著書は手にしてみたい。

大塚女子アパートメント物語 オールドミスの館にようこそ

大塚女子アパートメント物語 オールドミスの館にようこそ

朝日新聞における保阪正康の書評が参考になる。

沖縄 空白の一年―一九四五‐一九四六

沖縄 空白の一年―一九四五‐一九四六

沖縄戦と民間人収容所―失われる記憶のルポルタージュ

沖縄戦と民間人収容所―失われる記憶のルポルタージュ

■集権型解釈を超え、心情を的確に描く
 近現代史の史実の見方は、二つのタイプが先導している。東京発信の中央集権型解釈とアカデミズムを軸とした史料主義的解釈である。そのために見落とされている視点と証言があり、それが史実の見方を狭めていることは否めない。
 近年の沖縄論も基本的にはこの構図があるのだが、しかし沖縄をめぐる教科書問題、普天間基地に象徴される戦後の未決算などにより、中央集権型や史料主義的な見方を超える書が発表されつつある。川平成雄の『沖縄 空白の一年 1945-1946』は前者を超え、七尾和晃の『沖縄戦と民間人収容所』は後者に欠落する証言を補うという点で注目されていい。
 とくに川平著は、沖縄を本土の感傷でなぞる書も含めて、従来の沖縄論に疑問を呈する重みをもつ。沖縄に「戦後」はないとの視点がくり返し指摘される。この意味はひとつに牛島満司令官の自決した日の6月23日でも、8月15日でも、あるいは9月2日でもなく、1945年3月26日(慶良間列島の占領)のニミッツ布告第一号から1946年4月15日の貨幣経済復活までのほぼ1年間を「空白」と捉え、この期間に沖縄の特異な戦時・戦後体験があったと見る。
 二つに、戦争終結とは沖縄の住民にとって自らが米軍に捕らわれた日との見方を提示される。8月15日には沖縄の収容所の幾つかには学校もあり、教育も行われていた。新聞も発行されていた。捕虜となった沖縄の人びとはすでに新しい生活に入っていたが、その環境が今なお続く。なぜそうなったのかを本書は説き明かしているのである。
 沖縄を軍事的に制圧した段階で、アメリカは今後この地をどのように使うかの価値を知っていた。地質がよく農業に向いている土地はそのまま軍事施設に適している。加えて東西冷戦の軍事基地としても、この地を離すわけにはいかない。つまり沖縄は日本側により切り捨てられたのだ。沖縄の人びとがいかに日本軍や戦後の政府に利用されたか。私たちが見逃し、傍観していた史実(たとえば戦災孤児マラリアなど)も示されて、東京発信の中央集権型解釈は黙する以外にない。
 米軍の収容所が日本軍よりはるかに安全であり、生活も保障された現実、ショウランド事件に示される米軍将校の傲岸(ごうがん)な言動に食糧を完全に与えよと日本側は抗議し、それを受けいれる例は収容所のほうが日本軍の下にいるより格段に民主主義的でもある。
 この空白の1年に、米軍に水や食を保障されながらも、収容所風民主主義そのものの矛盾にも気づかされる。とくに七尾著は沖縄人の収容所での証言を数多く集め、この収容所をアメリカの歴史であるインディアンの保留地と重ね合わせるなどいくぶんの無理もあるにせよ、沖縄人の心情は的確にえがいている。
 二書により従来の沖縄論の欠落が明らかになり、私はしばし茫然(ぼうぜん)としつつ考えこんだ。

 『沖縄 空白の一年』 川平成雄・かびらなりお 1949年生まれ。琉球大学教授(沖縄社会経済史)。△『沖縄戦と民間人収容所』 七尾和晃・ななおかずあき 1974年生まれ。ルポライター。『炭鉱太郎がきた道』など。

 ちなみに昨年末の保阪正康による「お薦め今年の3点」は下記の如し。

内訟録―細川護熙総理大臣日記

内訟録―細川護熙総理大臣日記

毛沢東 ある人生(上)

毛沢東 ある人生(上)


 保阪正康が昨年末にこの本についてひと言語ったことがあって、繋がりは何かと思っていたのだけれど、彼はこの本についての書評を書いていたのだった。
 私にとっては 3,990円という値段そのものが立ちはだかる壁。

戦死とアメリカ―南北戦争62万人の死の意味

戦死とアメリカ―南北戦争62万人の死の意味

■死の正確な実相から歴史を見直す
 著者は「序」の一節で、「本書はアメリカの南北戦争における死の務めに関する本である」と執筆の姿勢を明かす。死の務め? 読み進むうちにその意味がわかってくる。務めとは1861年から1865年までの南北戦争の期間に62万人の兵士や民間人が戦死したのだが、その死の正確な実相、アメリカ社会の困惑と疲弊の姿、さらにはアメリカの歴史そのものが「十分に理解や認識がされてこなかった」という事実を指しているのだ。
 確かに南北戦争について、私たちはアメリカ史の中で建国の胎動という枠組みで多くの書にふれてきた。しかしこの戦争は、単にその枠を超えて「戦争で死ぬとはどういうことか」という一点で見ていくと、驚くほど人間存在の本質を抱えていると本書は説く。著者はアメリカ南部史の専門家だが、北部人210万と南部人88万が戦ったその戦争の中にアメリカ人の戦争という意味だけではなく、人類史の視点をもちこむことで、私たちにも自国の戦争について考えるきっかけを与えている。
 兵士一人一人を名をもつ、家族に囲まれた存在であることを決して忘れるべきではないとの示唆は、戦場での悲惨な死は人間ではなく「豚だ」と思う兵士たちの意識のゆがみや「偉大な将軍のために名誉や栄光を製造する単なる機械」と考える兵士の例を数多く紹介することで説得力をもつ。リンカーンも多くの殺戮(さつりく)をとにかく正当化せざるを得なかったのだが、それゆえに死者たちを「永遠に存続する国家に霊感を与える存在」として讃(たた)え、合衆国はこの地上から決して消えることはないとその神聖化を説いたのである。
 20世紀のアメリカが第1次大戦から最近のイラク戦争まで、自国の兵士たちを幾人も戦死させることになったのだが、ときにそれはアメリカがつけを払っているのかもしれないと著者は指摘し、「生存者さえも別の人間になった」ことを今も理解しえずにいると問いかける。私も同年代のベトナム戦争に従軍したアメリカの友人の苦悶(くもん)の表情を見ているだけに、本書の歴史的視座にうなずける。
 黒沢眞里子訳/Drew Gilpin Faust 1947年生まれ。歴史学者ハーバード大学学長。

 Drew Gilpin Faustは、南北戦争の研究者。ハーバード大では28代目にして初の女性学長。
 原著書は「This Republic of Suffering: Death and the American Civil War 」でしょうか。
 iTunes UではNew-York Historical Societyの2008 Public Programs & Exhibitions - Tracksの5回目、「The Republic of Suffering: Death and the American Civil War」で語っているのを聴くことができる。ちなみにiTunes Uにはかなりの数の大学や研究所の授業や講演やシンポジウムを無料でダウン・ロードして聴くことができる。