ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

訃報

 ドナルド・キーンが96歳で他界したと報じられていた。3.11のあとで、彼が日本に帰化した時に、この歳でこんなことを思う人もいるんだなぁと、驚いた。日本人だって、残りを安全に暮らせるところを探したくなるだろうに、わざわざ原発が爆発したような国に、それも帰化しちゃうんだからと。
 ドナルド・キーンはロシア系ユダヤ人で、1938年に16歳でコロンビア大学文学部に入学しちゃう。この辺も含めて、なんとなく鶴見俊輔系の匂いが漂う。源氏物語から日本文学に入るってところがかなり正当派だよね。
 1941年12月Navyの日本語学校に入学する。海軍は1940年の前半に日本語特別講座を開き、応募者600人の中から56人の白人を採用。これが1941年6月にUCバークリーとハーバードに日本語学校となる。そして1942年6月にはコロラド大ボールダー校に移り、ここにドナルド・キーンエドワード・サイデンステッカーが在籍していた。
 陸軍は1941年11月にサン・フランシスコに秘密語学学校を作る。こっちは60人の内58人が日系米国人。こっちは後にミネソタ州に移る。太平洋戦線で、米陸軍が侵攻するにしたがい、太平洋の各地で、日本兵に対する降伏の呼びかけや、捕虜尋問の通訳等を担当し、日本に進駐した日系米国兵士の多くはここの出身だった。
 一方、海軍日本語学校では本土での捕虜尋問等に従事した兵を育成していた。このあたりについては中田整一の「トレイシー」が詳しい。

トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所 (講談社文庫)

トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所 (講談社文庫)

 ドナルド・キーンは捕虜時代の豊田穣の尋問通訳を担当し、1945年には沖縄攻略作戦に従軍。軍の通訳時代からの友人にオーティス・ケーリがいる。ケーリはハワイで捕虜収容所長を務め、戦後は同志社大で教鞭を執っていた。 彼は本当に日本人の中でどのように理解されているんだろうか。東京新聞で連載された60数回分を単行本として刊行して貰いたい。