ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

放送マスコミ

 日本では電波マスコミは大きくは二つに分類することができる。もちろんひとつは視聴者が原資を提供するという行為によって成り立つ日本放送協会であり、もうひとつは企業体が自らを広告するために提供する資金によって運営されている民間放送である。
 民間の利益追求集団が自らをよく見せる広告キャンペーンを行う場としてその多くの時間を費やすために使われている民間放送ではそうした集団が不正を働いている、あるいは虚言を弄しているということを追求することは自殺行為になる。自らの存在を否定することになってしまう。
 そこへ行くと日本放送協会は視聴者の役に立つ報道がなされなくてはならない。それは視聴者が身銭を切っているからだ。ところがなぜか不思議なことにこの放送に関してはその中身を国会で議論され、認められないと実行ができない。放送法という法律でそう決まっている。国民が選出した議員が集まっている国会で議論・承認されるんだからそれでよいのだということになっているけれど、これは実はおかしい。なぜならば選挙権と視聴料を支払っている視聴者とはそもそもその定義が違っているからだ。まぁ、実際には大きく変わらないのだからそれで良いじゃないかということになって皆何もいわないことになっているけれど、実はこれは国会で議論されるべきではなくて、視聴者代議員会議とでもいうべきものを組織してそこで議論されなくてはならない。
 経営委員会というものがあって、そこで語られることになっているのだけれど、その委員というのは12名のうち利益追求集団出身者が約半分。大学関係者が3名、残りが作家、弁護士、NGOの女性たち、である。これですべての利益代表を反映しているという考え方に立脚することになっているということか。それでも経営委員長の出身母体である某製鉄企業が不正を犯していたり、何らかのスキャンダラスな事件が起きたときにどのような報道をするのだろうかという不安をもたれかねない。
 民間放送に至ってはスポンサーたる金づるがいかなることをやっていたとしても、これを追求していくことは容易ではないはずだ。ましてや日本への原発導入の大きな牽引車となった正力松太郎初代原子力委員会会長がまさに創始者である日本テレビに至っては原子力発電技術に関する問題点を追求することは容易ではないはずだ。
 日本テレビの解説委員だった水島宏明といえば『NNNドキュメント』ディレクターとして「ネットカフェ難民」シリーズをとりあげ、バブル後の日本の貧困格差問題にスポットライトを浴びせ続けたディレクターとして知られている。彼に質問をする機会を得たときに、私がした質問は「民放という環境の中でこの問題を取り上げることに困難はなかったのか」というものだった。もちろんあったに相違ないけれど、それを匂わせはしたものの、まさか具体的な中身を公開するものではなかった。
 その水島が昨年の「3.11」以降、日本テレビを退社して今は法政大学社会学部で教授として教鞭を執っているのだそうだ。

 震災後、報道局の幹部が突然、「今後はドキュメント番組も基本的に震災と原発のみでいく」と宣言しました。
 しかも、NNNドキュメントの企画会議では、「うちは読売グループだから、原発問題では読売新聞の社論を超えることはするな」と通達された。(週刊ポスト2012年6月1日号)(http://www.excite.co.jp/News/society_g/20120521/Postseven_109380.html

 彼が日本テレビを離れて現職を得たのは当然のことであるし、彼のスタンスでどのような講義を学生にするのか、という点については非常に興味深いものがある。そして、彼が辞めるに至った経緯を明らかにしていくのは日本の民間マスコミに対するアンチテーゼとして非常に重要だ。

 今日の日本放送協会の「クローズ・アップ現代」は中国共産党の次世代幹部候補の明暗を取り上げていた。もちろん闇は重慶市長の座を追われた薄煕来のことで、明は汪洋・中国共産党広東省委書記のことだ。この取り上げられ方は薄煕来が自分の地位向上のために貧困格差の解消策に邁進したという取り上げられ方であって、共産主義の本来的考えをどう評価するかという点について中国共産党を非難するものでは全くない。
 私の目には中国共産党はもはや社会主義政党であるということを全く放棄してしまって実質的には資本主義、利益追求集団有理に堕してしまっているというべきであって、彼らは共産党という集団を解散しなくてはならないのにその看板を掲げて犬の肉を売っているに過ぎない。しかし、国会につながっている以上、日本放送協会中国共産党を批判できる立場を放棄しているのだと捕らえられてもこれは仕方がない。

 それにしても法政大学社会学部は今でもその存在の根本的立ち位置を貫いているように見えて興味深いものがある。状況が許すなら講義を聴きに行ってみたい気がする。