ほぼ足りてまだ欲 その先

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スタンドプレイ

 今回の大学三校新設認可/不認可騒動は田中真紀子のスタンドプレイ以外の何者でもない、可哀想なのは受験生だという論調が巷を支配している。
 敢えて私はこの論調に棹を差してきた。正に今年の受験生達の非常に限られた人たちはこの三つの学校を視野に入れていた人たちがいたのだろうし、推薦入学が内定していた人たちもいたのかも知れないけれど、それは正式認可前のフライングであり、審議会の答申が即そのまま国の正式決定と同様な力を持っていたこれまでの仕組みがなぁなぁのいい加減なものだったことであることは相違ない。
 何よりも問題だったのはこれまで教育という「産業」の既得権益者を優先とした権益の保護でしかなかったという点だ。
 確かに田中真紀子が自己の力を見せつけようとしたという動機がないとは言い切れないだろうけれど、霞ヶ関を含むこの権益死守勢力の大きな力が依然として教育界を牛耳っていることに気がつかなくてはならない。
 現場にいってみると良くわかるのだけれど、大学とは云え、本来的な学習・研究機関としてというよりも、学生を如何に集めて金を掛けずに利益を上げようかとする集金機関と化しているものが多いのが現状だ。スポーツに強い学生を集めて全国大会でなを知らしめ、学生を集めて金を集める企業でしかないという大学が如何に多いことか。これらはスポーツ専門学校で何がいけないのか。
 それは「大学」という名がつかないと就職に不利だからという戦後ずっと続いている全く意味のないラベルを貼るためだけに過ぎない。そのラベルはもう今や形骸化しているのだけれど、ついているといないのでは今のこの時点でも変わっちゃいない。
 田中真紀子が投げかけた「認可/不認可」騒動はこの国の根本的な問題点に根ざしている。しかし、国会の委員会での自民党の大臣追求は表面的ないったいわない追求でしかなくて、自分たちが長期政権を築いていた時に、一体何をしてきたのか、に未だに気がついていないということを露呈したに過ぎない。しかも、マスコミはただただ「受験生が可哀想」論点にしか立てていない。
 田中真紀子のスタンドプレイを法的に違法だといっている人たちもいる。設置法に反するのだと。だとしたらその法律自体が時代にそっていないということであって、この法律を放置してきた要因は何か、という点を考える必要がある。法に合致している故にこの日本の高等教育機関だと称するある種の大学については、いってみれば法の目をくぐり抜けた集金機関だということができるだろう。