ほぼ足りてまだ欲 その先

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日本の将来

 のっけに断っておくと、とにかく日本が1995年くらいまで置かれていた状況はもう二度と帰ってくることはない。なぜならこれからの世界経済の中心は米国と中国になるだろうし、ひょっとして米国を中国が凌駕することによって、米国が相対的に低迷していくことによって中国の一人舞台になる可能性があるということだろう。
 何しろ中国には13億人の人口がいて、20年ほど前までは人民の暮らしはまったく粗末なものだったのだから、その伸びしろはいくらでもあるといっても良いくらい。日本が戦後ほぼゼロに近いところから始まったことを考えても、その「のびしろ」という名前の市場はたっぷりしている。それに引き替えてEUにしたって米国にしたって、はたまたかなりスケールは小さくなるけれど、たかだか人口1.2億人で、しかもこれから先どんどん収縮していく日本市場はとっくに飽和状態に陥っている。
 その上、産業は日本の労働市場をとことんシャブリ尽くして、懐にたんまり蓄えているんだから、この市場に資するわけがない。
 となると、この国が考えなくてはならないのは、これまでのやり方ではもう二度と機能することはないのだということなのだ。この点に気がつかないと、安倍晋三のように、将来の働き手の負担でもって市中に金を放り出して、その懐に抱えている連中にまたぞろ金を流すということを考えたとしても、それはまるで東京湾に用もない道路を通したのと同じ轍を踏むことにしかならない。
 製造業がこの国を支えてきたのは確かだし、なによりも根気のある真面目で手先の器用な日本人という神話はもうとっくに保存技術とはなったものの、この国を引っ張る原動力ではあり得ないのだ。
 「あの夢をもう一度」と語って票を集めようとするのは非常に安直だし、投票する方も、直ちにわかりやすい上に「そうでなくてもそうであってくれたらこんなに嬉しいことはない」という妄想の中に浸りやすい。しかし、それはこの国の終焉を早めることでしかあり得ない。
 文化的で、人間本意で、真面目な、他国の人々が羨むような社会を構成することを考える必要がある。乱暴でも、その片隅にいつでも札束が転がっているからどうにでもなるような社会はもうこの国が目指してはならないものの筈だ。中国はこれからは誰がどんな舵取りをしても、あの市場が満杯になるまでは乱暴に札束を振り回すことが社会をリードしていくことになるだろう、この国がそうであったように。
 私たちの国はもうそれではやっていけないのは明白だ。それを武器を片手に「参ったか!」という国を作りたい人に託すのか?それは明らかに間違っているだろう。