ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

坂本政明さんのこと

 坂本さんが癌の末期だと聞いたのは今年、まだ寒さが厳しかった頃のことだったと思う。昨年の夏に病気が見つかって、その時点ですでに末期だったのだそうだ。少し春がやってきた頃にあの寒がりだった坂本さんは他界した。
私が彼に出逢ったのは2001年の春のことで私が学士入学した大学学部に一年遅れて三年編入してきた。最初の大学は私とやっぱり同じ大学だけれど、彼は法学部の卒業生だった。同じように一年浪人していたというから、年齢の上でもやっぱり一年彼の方が若かった。しかも、私と同じように彼もまたそれまで務めてきた会社を早期退職してやってきた。本当かどうか知らないけれど、彼にいわせると学部のパンフレットに私の写真を見て安心したといっていた。
当時の学科長が来年のパンフレットに「君のことを載せていいですか?」といわれたので、「結構ですよ」とお答えして写真を撮られていた。それが掲載されていたのだ。あれは確か学校に通っていた時に使っていたUNIQLOの黒いデイパックを背負ったまま撮られた写真だった。
 彼は独身だったから、時として二人で池袋や朝霞台で酒を酌み交わした。彼は日本酒が好きで酒が強く、屈託がなくて、アッケラカンとしているところは如何にもワンダーホーゲル部出身らしかった。当時は一年生から入学してきた社会人経験者や三年編入してきた社会人経験者が、私たちの学部があったキャンパスの二つの学部に結構いて、孤立しないようにと、学生相談所にお願いして「社会人入学、三年編入者」の昼飯会を春に開いていた。5月以降は学食の一角に三々五々集まって情報交換をしながら飯を食っていた。卒論について、あるいは進路について、あるいは授業の情報について、忘れかかっていた大学生活をきっちりと埋めようとしていた。
彼は社会学の先生のゼミについていて、やりたいことの方向が見えていた筈だけれど、一度違う釜の飯を食って見たいと思ったのか、あるいは目標とする方向の指針を見つけたのか、修士課程では他の大学院に行った。その大学院のゼミの人たちともすぐに打ち解けていたようで、私も彼らと一緒に飲みに行ったこともある。彼を慕う若者がすぐにできるのも彼の人間性のなせるわざだったのだろう。あの笑い顔に接すると誰もがファンになる。私も彼と飲む時は、思いっきり酩酊したし、口論に良くなった。フェアな社会の構築をどこに求めるか、という議論をすることができたのはとても有意義だった。しかも、彼はいつも私の論理の弱点をプスっと突き刺した。今でもまだ解決法が見つからないのは消費税の分離税率のシステムについてだった。
そのうちに彼から新しい学会が作られるんだという情報をもらった。それは移民に関する政策について考える学会だった。準備大会の段階から彼から情報をもらっていた。彼は修士を終えてから、また、後期課程に入って戻ってきた。大学院の研究科紀要に「外国人の社会福祉享有に関する一考察」という論文を書いている。法律の観点から彼が日本の移民政策を如何に論じ、提示してくれるのかと楽しみにしていた。タバコもやめたし、歯医者にも通って整備してきたんだと久しぶりに谷中の一杯飲み屋で呑んだ時に、聞いた。新大久保に暮らしたけれど、何でそんな喧騒に満ち満ちたところに暮らしているのかと聞いたら、いつでも何でも食い物がある、といった。なるほどと納得したのだ。彼は私の恩師である岡田徹先生と相通じるところがあって、なんでもっとあの先生と呑みにいかないのか、不思議に思っていた。通じすぎる匂いがするものだったのだろうか。
彼のペースについ引きずりこまれて、先に潰れて車に放り込んでくれたことが2-3回はあったなぁとそれが残念だという思いと共に蘇る。
ちょっと長いこと呑みの誘いがないなぁと思っていたところに、末期だという知らせだった。見舞いにもいけなかっただけでなく、訃報を聞いて通夜・告別式の時に、風邪を引き込んで別れの席にも同席できなかった。如何にも早すぎた。
彼は母校に個人としては驚くべき金額の寄付をした。ありがとう。彼が手伝っていた留学生諸君の役に立つように使ってくれると良いのだけれどなぁ。