ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

-「昭和天皇実録」を読み解く-専門家の目:下 欧州外遊、キリスト教に興味

朝日新聞2014年10月28日05時00分

■始祖は天照大神、自ら宮中祭祀
 伊勢神宮の祭神でもある天照大神(あまてらすおおみかみ)を始祖とし、自らも宮中祭祀(さいし)を行ってきた天皇。その天皇神道以外の宗教に急接近した時期があった。「昭和天皇実録」から、その事情を読み解く。
 実録を読んだ原武史明治学院大教授(日本政治思想史)は、天皇キリスト教関係者との面会の多さに驚いた。「占領期だけで50回以上会っている。この数は普通じゃない」
 天皇キリスト教に興味を持ったきっかけとして原教授が注目するのは、1921(大正10)年の欧州外遊だ。実録の同年7月15日には、ローマ法王ベネディクト15世との面会の様子が記されている。法王は、1919(大正8)年の朝鮮独立運動カトリック教徒が関わっていなかったことに触れ、こう話したとある。「カトリック教会は世界の平和維持・秩序保持のため各般の過激思想に対し奮闘しつつある最大の有力団体であり、将来日本帝国とカトリック教会と提携して進むこともたびたびあるべし」
 原教授は「この時、天皇カトリックが国体を脅かす存在ではなく、むしろ過激思想に反対する宗教だと確信したのではないか」と見る。
 日米開戦直前の1941(昭和16)年11月2日には、東条英機首相に「ローマ法王を通じた時局収拾の検討」を提案している。「天皇終戦を模索する中でも、法王の仲介を想定していた。それが1942(昭和17)年2月14日の『ローマ法王庁への外交使節派遣等につき御下問』という記述に表れている」
 ■仏人神父に会う
 天皇は戦後もキリスト教に関心を抱き続ける。1946(昭和21)年4月30日には、田中耕太郎・東京帝大教授から講義を受け、カトリックが布教に格別熱心な理由を尋ねた。1946年以降はフランス人神父のフロジャック、ドイツ人修道女の聖園(みその)テレジアに会ったとの記述が目立つ。さらに1948(昭和23)年以降は、女性牧師の植村環(たまき)が皇后に聖書の講義をするため参内した際、何度も同席している。
 こうしたキリスト教への傾倒はどこから来ているのか。「根底には神道への悔悟があった」というのが、原教授の見方だ。
 1945(昭和20)年7月30日から8月2日に天皇大分県宇佐神宮、福岡県の香椎宮などに勅使を派遣した。その狙いを実録は「由々しき戦局を御奉告になり、敵国の撃破と神州の禍患の祓除(ふつじょ)を祈念」と記す。「天皇の勅使が九州の香椎宮に敵国撃破を祈念した1週間後、同じ九州の長崎に原爆が落ちた。天皇はそれに運命的なものを感じ、後悔もしていたのではないか」と原教授は言う。
 天皇は1946年に九州のカトリックの状況について報告を受けたほか、1949(昭和24)年の巡幸の際には、長崎県大分県カトリック施設で滞在時間を延長したり、外から見る予定だった聖堂の中まで入り込んだりするなど、カトリック教徒たちを気にかけていた様子がうかがえる。
 ■改宗も考えた?
 一方で「外交面」の思惑もあったようだ。原教授は「天皇は皇太子の家庭教師としてクエーカー教徒のバイニング夫人を呼ぶなど米国経由のキリスト教を取り込みつつ、他のチャンネルも確保しようとしていた」と話す。それがカトリックへの接触という形で表れていると見る。
 「退位を封じられた天皇は、カトリックへの改宗すら考えていたと思う。戦勝を祈った神道を捨て去ることで深い反省の念を示して自らの戦争責任に決着をつけ、同時にローマの法王庁に中心を持つカトリックに身を委ねることを通して、占領軍である米国とも一線を画そうとしていたのではないだろうか」(編集委員・宮代栄一)