ほぼ足りてまだ欲 その先

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拝聴録

 久しぶりの保阪正康の話を聴く会だった。昭和天皇の実録が公開されてもうそろそろ三ヶ月になる。これにはほとんど反映されていないというけれど、昭和天皇は戦後すぐ、一年も経たないうちに側近に書き取らせた「拝聴録」というものがあるとはいわれているのだそうだ。それが日経新聞(2014/9/9 5:00)によると「1946年3月18日から4月9日まで計5回、松平慶民宮内大臣ら側近5人に戦前戦中の回顧談を聞き書きさせた。回顧談は10月1日に「聖談拝聴録」として天皇に渡された」ものが最初だとしている。
 保阪によると、これまで誰も見たと聞いていないが、様々なところから漏れ伝えられるところによると、昭和天皇はほとんど一般国民が知っていることすら知らなかったことに戦後気がついて相当に激高したのだという。東條は奏上するのはしょっちゅうで陛下にあの作戦はどうだったのかと聞かれて、まずいと他の話にすり替えたりしてきたのだそうだ。その場限りをやり過ごせば良いとしてきた、そんな考え方が軍官僚のみならず現場にまで及んでいたのが、戦争に突入した日本軍の実態だった。何しろ先の読みなぞ全くなしに突っ込んでいくのだから、落としどころなんぞの発想すらないわけで、この辺は今でも官僚主義はそのままだといって良いだろう。それが今の自民党公明党連立政権にそのままだ。アベノミクスだか、アホノミクスだかの落としどころは一体どこなのか。
 「拝聴録」については毎日新聞も書いている。

昭和天皇実録:戦前・戦中回顧し口述 「拝聴録」の存在、宮内庁「未確認」(毎日新聞 2014年09月09日 東京朝刊)
 戦後、昭和天皇が戦時中のことなどを回顧して側近がまとめたとされる「拝聴録(はいちょうろく)」について、実録は従来知られていた以上に詳細に作成過程を記した。昭和史研究のカギになる史料と見られているが、拝聴録そのものの所在は判明しておらず、今回も宮内庁は「不明」とした。
 拝聴録は、終戦間もなくの1946(昭和21)年3〜4月に松平慶民(よしたみ)宮内大臣や木下道雄侍従次長ら側近5人が集中して聞き取り、文書化したとされる。5人のうち元外交官の寺崎英成(ひでなり)御用係の控えが1990年に公表され、「昭和天皇独白録」として公刊された。だが、作成は後年も続けられたことが他の側近の日記などから推測され、より大量で多岐にわたると推定されている。
 実録では、1946年7〜12月に追加や修正が行われたことが記されたほか、「満州事変勃発当時のことを中心に御回想(中略)筆記させられる」(1954年4月21日)などと記載。
 その後も1968年や1976〜1985年にかけて、退位問題などに関する追加作成が行われている。出典には、従来知られていなかった稲田周一・元侍従長の関係資料などが挙げられている。
 拝聴録は、卜部(うらべ)亮吾・元侍従の2001年2月7日の日記に「『拝聴録』コピーとも出てくる」と記されて以降の所在が不明で、これまで宮内庁は「作成されたかどうかも公文書では確認できない。皇室の私物とすれば確認できるものではない」としてきた。
 今回、同庁書陵部は「何回かにわたって作成された事実は認められた」とする一方、「調査したが、発見できなかった。現存するかどうかを含めて確認できない」とした。【古関俊樹、関雄輔】

 一方、朝日新聞では随分前にこの「拝聴録」に触れているようだ。

昭和天皇「拝聴録」の存在浮上 卜部日記に記載(asahi.com 2007年05月02日08時01分)
 卜部(うらべ)亮吾元侍従の日記と富田朝彦宮内庁長官のメモが相次いで明らかになったが、その中で入江相政侍従長昭和天皇から聞き取った「拝聴録」の所在が浮かび上がってきた。宮内庁は情報公開請求に対して拝聴録は「存在しない」としてきたが、卜部元侍従の日記には、1988年に所在がいったん確認された後に行方不明となり、2001年になって再発見されたことが記されていた。公開されれば昭和史の超一級史料となるだけに、宮内庁の対応をめぐって論議を呼びそうだ。
 卜部日記では、1988(昭和63)年5月23日に「侍従長と表御服所に赴き入江侍従長の『拝聴録』を探索す、断念しかけたが最後にキャビネット最下段から発見、内容確認しリストを作り元の場所に収納」とある。表御服所とは宮殿地下の倉庫だ。
 1976年2月から1981年5月までの日付の入った聞き取り記録とみられる書類や、「大金益次郎(終戦直後の侍従長)拝聴」「大東亜戦争回顧録原稿」など14袋のリストが添えられていた。
 富田メモにも同じ1988年5月23日付で「山本侍従長 入江聴書、発見(略)徳川失念か(徳川が侍従長cabinetより移させた)」とあるとされる。
 しかし、卜部日記には、1989(平成元)年8月4日に「宮殿表御服所へ 『拝聴録』の所在確認すれどなし」と、再び所在不明となったことが記されていた。
 1996年2月2日、徳川義寛参与(元侍従長)が死去すると、再び所在確認が課題となった。その後、捜索したが、なかなか見つからなかった。
 そして香淳皇后死去の翌年の2001年2月7日。日記には、再発見されたことが記録されている。「皇太后宮職の車で吹上へ、全員集合、徳川ご遺族から返還された鞄(かばん)の中の資料を点検する 問題のいわゆる『拝聴録』コピーとも出てくる やはりという感じ、その他は御引見の資料 お言葉ぶりなどですべてコピーなので破棄処分に」
 この記述から「拝聴録」は皇居内のどこかに保管されている可能性は強いとみられる。
 拝聴録は、1976年に入江元侍従長昭和天皇から戦前・戦中などの回想を聞き取ったもので、敗戦直後に寺崎英成御用掛らが聞き取った「昭和天皇独白録」を質量ともに上回るとされている。
 しかし宮内庁は、これまでの情報公開請求に対し「存在しない」と回答。非公開処分を不服とする審査の過程では「天皇の私物として仮に存在するとしても、(情報公開法対象の)行政文書にはあたらない」と説明している。

 明らかに昭和天皇が忌憚なく自分の考えるところを語ったことがあるのは明白で、それを明らかにすることはこの国の本来を考える上では重要なことだろう。早晩、この資料が国民のものとしてつまびらかにされなくてはならない。そうでなくて、木下メモでも明らかにされた昭和天皇の言葉がむなしいものとなってしまう。ひょっとしてこれも「特定秘密」だとでもいうのだろうか。どうしてもあの法律は辞めさせなくてはならない。日本の歴史が失われてしまう。

しかし負け惜しみと思うかも知れぬが、敗戦の結果とはいえ我が憲法の改正も出来た今日に於て考えて見れば、我が国民にとっては勝利の結果極端なる軍国主義となるよりも却って幸福ではないだろうか。

 安倍晋三を初めとする歴史修正主義者はこの言葉をどう受け止めるのか。