ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

なぜ

 そういわれてみると、世の中にエベレスト登山にかんする本というのは結構ある。というより、今年の東西の日本のエベレストがらみ映画のせいなのかとも思ったのだけれど、いやいや、それは私にとってのきっかけに過ぎないのであって、世の中一般の話ではないはずなんだよなぁ。

 阿部寛の日本のエベレストものの映画は売れたんだろうか、それともバッタリ討ち死にだったのだろうか。日本の映画はつまらんから、お里が知れちゃうから、見ない私はそれを知らないです。

神々の山嶺(上) (集英社文庫)

神々の山嶺(上) (集英社文庫)

 あの映画の原作は夢枕獏の「小説」でございますな。夢枕獏が小説家だったということを今頃知ってびっくりしているのは小説という分野の書物をほとんど手にしたことがないこの私なんですが、彼が椎名誠の仲間だということは充分昔から、小学館BE-PALの定期購読者だった私は知っておりました。

空へ―「悪夢のエヴェレスト」1996年5月10日 (ヤマケイ文庫)

空へ―「悪夢のエヴェレスト」1996年5月10日 (ヤマケイ文庫)

 それなのに外国映画の「エベレスト」からその原作を知った私は、ここにも書きましたけれど、その時のドキュメント本を探し出してそれを読みました。自分が関心を持ったテーマの書籍を目にする度に手にして、ちょいちょいつまみ食いをする、というのが私のやり方なので、同時並行に様々な本に手をつけているのが日常ですが、この本ばかりは先が気になって気になって、一気呵成にこのちょっと古い文庫本をやっつけました。これは実に面白かった。
 何がどう面白かったのかというと、何しろ高所恐怖症で両側谷の稜線を歩かされたときに、同行者を呪い殺そうかと思ったくらいの私ですから、何しろ山に上がるというのは大嫌いですが、あの高所では予想もできないことが起きているようだし、これこそ非日常性の極致だと思われることの連続な訳です。これがめくるめく物語を構成する。その上そんな状況だから人は自分で意識をしないうちにとんでもない行動をとるらしい。そこに悲喜劇が醸成されてしまう。
 こんな本を持ってどこかの快適な空間に籠もってみたいなという気にさせるのでございますよ。
 そういえば先日来本屋の店頭にこの本を見ました。
沈黙の山嶺(上) 第一次世界大戦とマロリーのエヴェレスト

沈黙の山嶺(上) 第一次世界大戦とマロリーのエヴェレスト

 上下本に分かれているし、夢枕獏の本とタイトルがそっくりだし、私は長いこと、この二冊というか、四冊を混同しておった。ところが全然違うんでヤンの。この本は翻訳本で第一次世界大戦のあと、つまり、今から見ればいわゆる戦間期ですな。そのころに英国人がチベット側から行なった世界初のエヴェレスト遠征のドキュメントなんだそうで、彼らがもしも頂上を極めていたら彼らが初登頂ということになったらしい。しかも、彼らはどこにエベレストがあるのかを探しながら3回をかけていったらしい。この先の話を小説にしたのが夢枕獏なんだそうだ。
 そこで私の疑問なんだが、エベレスト関連本、関連映画なんだけれど、一体、誰が読み、見るんだろうか、ということなのだ。
 山の練達者たちが読むのだろうか。そんな人たちはそんなに驚くほど人数がいるというのか。確かに山婆、山爺が増えているとは聞くけれど、この手の本が刷り増しされ、文庫化されても、まだまだ店頭に顔を出しているという、この売られ方を一体誰が支えているというのか。
 結論は、この高所恐怖症の爺がこんなことを書くことで証明されているって事になるのだろうか。