ほぼ足りてまだ欲 その先

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銀座

銀座十二章 (朝日文庫)

銀座十二章 (朝日文庫)

 池田弥三郎といったらNHKテレビの私の秘密「私だけが知っている」の回答者、として私は初めて認識していたわけだけれど、実は慶應義塾大の先生だったわけですよね。折口信夫の教え子だったそうです。
 クラリネット奏者の北村和夫によると、戦後池田先生は大学に赤いベレー帽を被ってやってくるような洒落者だったそうで、北村がプロミュージッシャンとして誘われたときに「君、それはいくら貰えるんだね?」と聞かれ、月にこれくらいにはなると説明したら「やりたまえ!」と云ったそうだ。
 その池田は銀座にあった天麩羅屋「天金」の次男坊だったそうだけれど、この本を読むと昔の銀座のことがやたら詳しく書いてある。そりゃ彼が育った街だから当然だ。天金が服部時計店と土地のことで揉め、天金が破れて、服部時計店の裏、今のグッチが入っているあたりにあったそうだ。その後、大正七年に今のアルマーニのところに移り、そこにあった店には何度もいったことがある。どうやら他から聞くと、あの店は昭和46年に店じまいしたという。だから、私はまったくその最後の頃の天金の客だったわけだ。
 で、池田がいうには6丁目のクロサワあたりから新橋側の舗道は煉瓦敷きだったというのである。それはいったい何時ぐらいまで残っていたのだろう。そんなことをいわれると、私もなんだかどこかで、その煉瓦敷きの道というものを歩いたような微かな記憶が残っているような気がするのである。かなり摩耗が激しかったのではないだろうか。
 クロサワはタイプライター屋さんで、洒落たつくりの店でカードなんてものも扱っていたと記憶している。当時、カードといったら日比谷のアメリカン・ファーマシーか、ここで買ったような記憶がある。学生時代の私は英文タイプなんて打てなかったし、そもそも用事がなかった。ところが会社に入るやいなや、先輩から引き継がれてきたと覚しき古いクロサワの「英文タイプ教則本」を渡されて昼休みはもっぱらそれでタイプの練習をしろといわれた。それもその筈で、当時外国とのやりとりは航空便か、さもなければテレックスだったのだ。その為には英文タイプが打てないと、テレックスに流すテープを作ることができない。もちろん、手紙を書くにもタイプが打てないと困る。私たちの職場はそれが日常業務だったから、必須だった。それにしてもなんの技術もない若者を良く雇ってくれていたものだと、それはそれは良い時代だったと今から考えても懐かしい。
 私たちより先輩の皆さんはハンド・ライティングで手紙の原稿を書いて、それを女性社員に渡して打たしていた。そういう人たちから原稿を渡されて、それを手紙やテレックスにしていたわけだから、英文や、和文のポッチン、ポッチンと逆向きにセットされた活字を拾って打つタイピストの人たちが雇われていた。こういう仕事や、電話の交換手という仕事は今や全くなくなってしまった。
 ところが中にはハンド・ライティングの英文が字が悪筆で読めないっていう上司にしばしば遭遇したものだ。そうすると、いちいち席を立って「これはなんつう字ですか?」と聞きに行く。謙虚な人だと「あぁ、すまんねぇ」といわれるんだけれど、中には「なんだ、まだ俺の字を読めないのか」と居直る人もいたもんだ。
 そんなこんなで、おかげでこうやってパソコンで字を打ち込むのもなんの苦労もなくて今や大感謝なんでござる。クロサワ様のおかげでございます。だからあの瀟洒なビルが携帯電話のドガジャガした彩りになってしまったのが返す返すも残念至極なのだ。
 小松ストアーというのが今や最新のビルとして残っていて、ユニクロが入って外国人客であふれかえっている。あの「小松」が人の苗字だと思っていたらそうではないということが書いてある。なんでも松本楼の創業者である小坂梅吉が、信州松本出身の人がやっていた「松本」という料理屋を譲り受け、それで松本楼を作った。その小坂と松本で「小松」という食堂を作ったのが小松ストアーの起こりだというのです。戦後、先のビルを建てたときに敷地から小判が出てきたという。昭和31年のことで、それがちょっとやそっとの量ではなくて、慶長小判、享保小判を合わせて208枚、一分金も60枚だってんですからなまなかじゃない。それじゃ、小坂さんは大儲け、と思うのが素人の浅ましさ!なんの素人かわからないけれど。今でも上野のお山の国立博物館にあるんじゃないですかね。銀座小松のブログ(こちら)にも書かれています。
 この本は、まだまだ宝庫のようでございます。