ほぼ足りてまだ欲 その先

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植木毅

 三浦雄一郎アコンカグア登頂を諦めたとテレビがいっている。86歳である。心臓が持たないと医師が諦めさせたと。常に話題を提供し続けないといけない存在は大変だなぁというのが第一印象だ。彼を初めて知ったのはほとんどの人と同じように、彼がキロメーターランセに出場したと本に書いたからだ。確かイタリアかどこかの氷河を直滑降してスピードを競うという突拍子もない大会だったかな。そんなの彼が本に書かなかったら知らずに終わったような大会。その時に彼はどこかで転んで、はいていたスワロースキーが初めて開発したメタルスキーがグニャと曲がった、のだったような気がする。

 それまでスワロースキーの名前は聞いたことがあったけれど、それが飯山にある会社だと知ったのは、多分友達が斑尾でペンションを始めてからのことだった。当時日本のスキーはスワロー、風間、西沢、小賀坂くらいで、そこへヤマハがグラスウールの開発からの多様化で始めて、殴り込んできたという印象だった。しかし、ちょっとでも腕を上げるとみんな外国の板を穿きたがった。ヘッド、クナイスル、ロシニョール、K2、アトミック、HART、FISCHER等々に手を出し始める。今、国産のスキーメーカーで残っているのは小賀坂だけだと聞いて、驚いた。あれだけあったのに!!その後国産メーカーは紆余曲折あって、日本ブランドの中国製だったりしたらしい。あ、ちなみに小賀坂スキーのマークは亀倉雄策デザインらしいよ。

 私はスキーを始めたのはかなり遅くて大学に入ってからだ。もう既にバックルの靴が出始めで、国産の靴と、風間のグラスファイバーの板を買った。この板はそのうち前の内側がギッタギタになった。自分の板のエッジで踏むからだ。その後、HEAD、西沢等いろいろ乗ったんだけれど、最後は結局小賀坂のGF White を履いたりした。それでも最後まで持っていたのはおそろいで買ったアメリカのメーカーのものだった。

 今の板を見ると想像を超えた格好をしている。カービングスキーというのだそうで、スキー板の側面のカーブを生かして曲がっちゃうってんだから、想像の域を超えていて、なんもわからん。大体、今のスラロームの試合を見ていると、ポールが全部根本からパターンと倒れるから、昔ポールに肩から入っていったものを反対の拳で倒していく。私たちはどうしても肩から入ろうとするので、こういう入り方ができない。時代は確実に通り過ぎていった。

 で、三浦雄一郎の名前から思いだしたのが燕温泉の雄、植木毅の名前だった。あの人は今どうしているんだろうか。未だにお元気なんだろうか、「深雪の」と呼ばれた植木毅。燕での縁があったのか、大学の先輩から植木毅さんにつながっていたらしくて、学生時代に池袋の公会堂で植木毅さんの映画を上映し、植木さんのお話をお伺いするという会を催したことがあった。三浦雄一郎がこれだけ話題になるのであれば、植木毅さんの話題もして欲しかったなぁ。コマーシャリズムを巧く使える人とそうでなく普通に暮らしている人との違いは大きいな。