ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

5月1日

f:id:nsw2072:20200712154908j:plain:w360:left 結局、なくなっていたことが判明した、独り住まいだった知人は今年の5月1日に亡くなっていたそうだと、たった一人の残された家族である、遠く離れて暮らしていると思しきお嬢ちゃんにコンタクトを取れた友人が知らせてくれた。
 彼はもともと浅草の生まれで、その生まれた実家は今ではつくばエクスプレスの地上への出口になってしまっているところだと聞いた。
 私が彼に初めて出会ったのは多分大学二年生のクリスマス時期のことで、彼はもう既に大学を卒業していて、稼業の皮鞄職人になっていた。その時は家は千住宮元町にあって、一度だけ行ったことがあるが(スキーの帰りに泊めていただいた)ご両親と三人暮らしでプロ仕様のミシンでバッグを縫っていた。かつてはこうしてブランド物のバッグを日本のライセンシーが街の職人に作らせていた訳で、1960年代をまさに象徴する産業だった。
 私は大学2年のクリスマスに、生まれて初めて妙高池の平スキー場でスキーの板を履いた。スキー場の中腹にポツンと建ったロッジとは名ばかりの小屋はスキー客の昼飯を供する小屋で、その下に6部屋ほどの雑魚寝ベッドを装備した宿泊設備を持っていた。まさに山小屋だ。そこを借り切って、バスで乗り込むツアーで、ツアー専属のバンドとして雇われた。雇われたといっても、ギャラが出る訳ではなくて、人前で演奏ができて、ただでスキーができるという触れ込み。ただし、楽器は全部持ち込み。今からでは考えられないけれど、雪の降るなか、シングルのとぼとぼと上がっていくリフトに楽器を抱えて登って行った。
 なんでそんなことになったのかといえば、そもそもそのバスツアーに同行するはずだったバンドが「雪がない」という噂で降りてしまい、彼らの後輩である私たちのバンドにお鉢が回ってきたという訳だった。そのツアーの幹部も、行かないというバンドも先輩ばかりで、これを断って行かないわけにはいかないという時代だったし、それでも、ひょっとして雪がどっかり降って、生まれて初めてのスキーができるかもしれない上に、人前で演奏できるんだから二つ返事で船に、いや、バスに乗った。
 案の定、雪がない。しかも、生まれて初めてだから、道具一式をその小屋で借りた。当時のレンタル・スキーというのはもう、ろくなものはなくて、はっきりいえば「ギッタギタ」。しかし、生まれて初めてなんだから、なんだかよくわからない。確か、ヤッケと手袋だけは神田に行って買った。安物買いの銭失いという言葉は私にあるようなもので、ヤッケはすぐにそんなものでは役に立たないのだとわかり、手袋は転んでばかりいるんだから、もうびしょびしょで、手袋を取ると、掌は緑色に染まっていた。つまり、スキー手袋の用をなしていない。仲間の顔を見ると、(雪がないんだから)泥だらけだ。それでも、夜になると喜んで演奏をした。その前の年は、その先輩たちの仲間のバンドが演奏していたらしい。
 その年から、このグループに首まで浸かってしまって、ファウンダーの二年先輩たちが卒業したら、幹部になっていた。
 ハンドバッグ職人の先輩は学生時代に八方尾根のスキー場でパトロールをやっていたというくらいのスキーの達人だった。その辺のスキー場だったらまだしも、何しろ八方のパトロールと聞いただけで、腕前は誰しもが認めるというくらいの達人だった。早くあの人たちのようにうまく滑ることができるようになりたいと思ったものだ。すぐに腕前は上達しなくたって、格好や、道具は金さえ遣えば追いつける。ところが彼らが使っているものはそう簡単じゃなかった。クナイスルのホワイト・スターなんかは買えたとしても、腕前が伴わなければバカにされる、そういう時代だった。ミラーのサングラスとか、ミラージュのスキーパンツは初心者が身につける物ではない、というような。
 神田のすずらん通りにあったスポーツ屋を紹介してもらい、バックルの靴と、風間の板を買った。185cmの長さの板だった。今だったらみんなが驚くほどの長さだが、うまい人たちは2mなんていう長物を履いていた。
 そこからだから、もう付き合いは半世紀を超えた。年に一度か二度しか逢わなくなってきたがそれでも気心がしれているつもりになっていた。
 半世紀前のあのグループの仲間はこれでもう四人が鬼籍に入ってしまったことになる。みんなそれぞれユニークな人たちだ。