ほぼ足りてまだ欲 その先

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玉音放送の日

 正確にいえば、敗戦が決定したのはミズーリー艦上での降伏文書に連合国各国と日本代表が署名をした日ですから、この日を終戦だというのは間違っているわけです。戦争が終わったわけでもないし、地球上で戦いがなくなったわけではありませんね。
 もっとも降伏文書の署名に際してはニュー・ジーランド代表が署名欄をすっ飛ばしてしまったので、一番下に署名した代表の欄は手書きで加えられている実物を憲政会館で見たことがあります。あれだけの将兵が群がってみているところで、間違いに気がついた時は焦ったことでしょうねぇ。連合各国では(といっても豪州と米国しか知りませんけれど)この日のことを「VJ-day」といって(あるいはVP =Victory in the Pacific= Day)テレビには必ず、New Yorkでの大騒ぎが映ります。そこには真っ白い制服を着た水兵が踊らんばかりに喜んで、通りすがり(だといわれている)女性とキスする様が映ります。戦後50周年の年に私は豪州にいましたけれど、豪州の記念式典はとても厳かにキャンベラで行われ、時の首相であるポール・キーティングを忘れられません。
 今日文化放送は例年になく、アーサー・ビーナードが午前11時から玉音放送についての二時間番組を放送し、午後6時から文化放送の川口発信所の地下に見つかった場所から行われた米軍プロパガンダ放送に対する妨害発信に関する番組を放送すると聞いた。それで慌てて録音ソフトを買った。
 武道館では500人に限定した追悼式が行われた。どうして天皇皇后がステージ上に座るのかがわからない。追悼するという意味では段下にいて犠牲者を見上げなくてはならないのではないか、という気がする。その上、この場で、「君が代」が演奏されることに私はとても違和感を持つ。「天皇陛下」の命の元に死んでいった人たちを慰霊するのに「君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて苔のむすまで」と天皇制度がいつまでも続きますようにと謳うことへの抵抗がある。この歌詞の「君」は君や僕やあなた、日本国民のことなんだよ、とお為ごかしにいわれたって、「天皇陛下のために命を捧げよ!」と洗脳されていた時代から全く同じ歌詞を続けているんだからそれは詭弁でしかない。
 玉音放送文化放送の番組で良く聞くと、昭和天皇がもっとも気にかけてきたことは、国体の護持、つまり天皇制度が潰れてしまったら代々の天皇に申し訳がないから、というところにある。やっぱり天皇制を残したことによって、日本は戦前の悪しき姿を綿々と通底させる結果になってしまったということだろう。天皇制は明治革命によってここまで表立ったものとしたのであって、天皇家がこれを契機に京都に帰り、明治革命以前の姿にかえったとしたら、戦後の日本は全く変わったものになっていたことだろう。ある意味では今以上に米国に従属する国家、いや、ひょっとすると米国そのものに併合されていたかも知れないし、北海道はソ連の領土となっていた可能性は大きい。その場合、米国やソ連は日本の文化をそのままにしただろうか。もちろん歴史に「もし」はないのだけれど、想像はとどまるところを知らない。