ほぼ足りてまだ欲 その先

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NHK BS-1 世界のドキュメンタリー「マッカーサーが見た日本の降伏」

 2005年8月21日に放映されたものの再放送。2005年フランス ポワンデュジュール制作。
マッカーサーが厚木に降り立った1945年8月30日、厚木での日米の報道陣が写真を撮った枠の中には武装兵はひとりも映っていないが、これには慎重に準備がされていた。横浜のニュー・グランド・ホテルまでの25kmのあいだには日本軍兵士が沿道警備に立っていた。ここには日本軍の捕虜収容所から解放されたばかりの米軍ジョナサン・ウェンライト中将、英軍のアーサー・パーシバル中将がマッカーサーを迎えた。
 翌9月1日は横浜は雨。雨の中の風景がフィルムに映し出される。戦艦ミズーリー上ではウィリアム・バルゼー大将が日章旗を形取ったケーキにナイフを入れるというパーティーを楽しんでいた。
 9月2日の降伏文書調印セレモニーにはカナダ、ソ連中華民国、豪州、仏、オランダ、米、英、NZから列席。日本代表団の名前は保安上の観点から最後まで伏せられていたという。重光葵大臣に付き添った外務省の加瀬俊一によればこんな嫌な仕事を買ってでるものはいなかったのだという。重光大臣は「日本の歴史において悲しみと不幸の日だけれど、新しい日本の誕生日にしなくてはいけないのです」と語っていたという。ミズーリーの甲板上に立った加瀬は「さらし者にされていて、周囲から注がれる視線は猛烈な痛みを発する。耐えるのは容易なことではなかった。怖い校長先生を待つ子どものようであった」と言葉を残している。
 マッカーサーの演説はラジオで全米に生中継されたのだそうだ。午前9時4分、重光葵が加瀬俊一に助けられながら最初に署名。梅津美治郎が続く。
 マッカーサーはウェンライト中将とパーシバル中将を従えて机につく。やおら5本のペンを取り出し、1本めのペンはウェンライトへ。2本目のペンはパーシバルへ。次の2本はウェスト・ポイントと国立公文書館へ。そして最後の赤いペンはフィリッピンにいる妻と息子のための記念としたという。
 その後各国の代表団が順に署名をする。ところが5人目のカナダのローレンス・コスグレーブ大佐が降伏する日本に渡す書類へサインする時に、自分のタイトルが書かれた欄をスキップして一段下のフランス代表の欄にサインをしてしまう。次のフランスのジャック・ルクレールはそのミスに気付かずに次のオランダの欄にサイン。オランダのヘルフリッヒ大将は大いに悩んでしまった。結局下の欄へサイン。最後のニュー・ジーランドのレオナルド・イシット少将にはもう欄がない。とうとう彼は余白にサインをする羽目となる。
 この書類を受け取る役は外務省の岡崎勝男だったのだが、名にしろサインのタイトルとサインした人とがずれている。サザーランド中将はこのまま受け取ってくれとしたが、岡崎は重光に相談する。重光はそれでは枢密院をとても通らないという。当然だろう。代表団は既に艦内の部屋に入って祝杯を挙げている。「直したければ、そっちで適当に直せ」とサザーランドは言ったようだが、岡崎は「あなたにやって欲しい」と交渉する。良くこの場で正当な主張ができたものだ。本来的には、両社がイニシャルでもするべきだったかも知れない。
 サザーランドは結局、カナダの署名欄のタイトルを線で消し、ひとつひとつをハンド・ライティングで訂正していく。4人分を訂正したのだから、すっかり時間が経ってしまった。儀礼飛行のために飛んで来たおびただしい数の米国空軍機が米軍の威力を見せつけようと東京湾を飛ぶが、その時点ではまだ日本代表団は甲板上であった。