ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

ちぇっ!


関東平野では平野部でも雷雨の恐れがあり・・・」全然降らねぇじゃねぇか。ほんのちょっとゴロゴロっていったらしい。




 極めて唐突な話ではあるけれど、戦後映画で見た大日本帝国軍、特に陸軍ではなにかというと、「上官の命令は、畏くも、天皇陛下の命令である」といって上官は軍靴の踵をカツンと音をさせた。つまり、根性を入れ直すといって殴ったのも、天皇陛下が殴ったことになっていた。随分乱暴な君主だったわけだ。にも拘らず御真影は各学校で大事にしまわれておって、その前を通る時は深々と礼をしないと不敬であった。

 その天皇が「(戦争責任は)自分が引き受けて、退位でもして納めるわけにはいかないだろうか」と発言したと1945年8月29日の木戸幸一日記に書いてあるらしい。その時裕仁天皇は46歳である。あのマッカーサーと並んで撮った写真を見ると、とてもまだ40代の半ばだったようには見えない。


NHK 映像の世紀バタフライエフェクト
「激動 アジアの隣人たち 台湾 130年の傷痕 初回放送日:2025年6月30日」(NHKプラスで視聴可能)

 やっぱりここまでに至る台湾のことを私は殆ど知らなかったようだ。台湾へは1970年代の後半、三度ほど出張で結構長い間滞在したことがあるが、故宮博物館に至極感動したことくらいしか記憶がない。1972年に米中国交回復が突然ピンポンとともに実現して、日本も慌てて追従。と同時に台湾とは国交を破棄。大使館はなくなって、麻布だったかに亜東関係協会なるものができて、そこへビザを貰いに行った記憶がある。
 「1895年(明治28年)4月、日清戦争後の講和会議で調印された下関条約(日清講和条約)により、清国が台湾・澎湖諸島を日本に割譲。(ウィキペディア)」台湾軍との戦闘の後日本が制圧。1945年8月の日本配線により、中国国民党軍が進駐し支配することになる。しかし、共産党軍に敗れて蒋介石は軍を引き連れて台湾に逃れ、中華民国とする。人口600万人の台湾に本省人100万人が乗り込んできた。兵隊は家族を大陸に残してそのままやってきた。彼らは人民共和国と往来ができるようになるまで、家族から離れて生きてきた。大陸の家族の墓を参ることができたのは、彼らが年老いてからだった。
 大日本帝国は台湾でも皇民化政策をゴリ押しした。こちらでも朝鮮半島と同様創氏改名を迫った。京都大学に留学した李 登輝は日本名を岩里政男(いわさと まさお)と名乗ったという。

 台湾を「Formosa」と呼ぶことを知ったのは1970年の8月に生まれて初めてアメリカへいったときのことで、デパートの店員のおばさんがどこから来たのかと聞くので「Japan」といったら、とても嬉しそうに「そうか!うちの息子はFormosaにいるんだ!」といったことで知った。彼女は日本と台湾はおんなじようなものだと思っていたのである。ま、戦争が終わるまではそうだったのかも知れない。「Formosa」は、ポルトガル語で「美しい島」という意味なんだと知った。