ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

回顧談

f:id:nsw2072:20210108173849j:plain:w240:left 書棚に新潮社が刊行していた季刊雑誌の「考える人」のバックナンバーを並べている。その中でも一番分厚い号を取りだしてみたら、2006年冬号だった。特集は「1962年」としてある。当時私は中学三年生だった。当時の写真を見ると、浅草公園から新宿東口のバスなんてのが走っていたらしい。
 当時浅草から神保町へ通っていた某女子中学生によると、22番の都電を浅草橋で12番に乗り換えて通っていたというのだから、浅草公園から新宿駅東口へ行く都バスというのは、一本で行かれるわけで便利だったんじゃないのかなぁ。それでも渋滞したんだろうか。都電の22番が廃線になったのは1971年3月。12番が廃線になった方が約一年早くて1970年1月。いずれも私が大学在学中のことだ。中学生の時は、学校新聞の関わりで、数寄屋橋から何回か都電を利用することがあったけれど、そのあとは全く都電に乗った記憶がない。
 横浜市電は、小学生の頃から随分乗ったのだけれど、こっちは1972年に全廃されてしまった。特に小学校4年の夏休みは一ヶ月ほど、臨海学校として、六角橋-葦名橋を走る11番に乗って、間門小学校まで毎日通っていた。間門小学校の体育館に、ビニールでできたトランクに荷物を置きっ放しにして、貝殻だらけの海で泳いでは弁当の昼飯を食い、昼寝をしては泳いで帰る日々だった。それでもたったの10mしか泳げるようにならず、翌年の夏、清水の三保の海水浴場で毎日泳いで、完全に泳げるようになった。11番の市電は横浜の街の中心部を貫いて走る路線で、横浜駅の東口、高島町桜木町、花園橋から元町、麦田のトンネルをこぐって本牧、小滝、三渓園、間門をとおるというわけで、多分横浜市電でも長かった方だろう。この市電から、本牧の駐留軍の住宅を窓越しに見ていたわけだ。

日米交換船

日米交換船

 この号には鶴見俊輔黒川創加藤典洋が「日米交換船」について語っている。あの本が新潮社から出版されたのが、3月26日のことで、これはいわば番宣なんだけれど、こういう番宣はいくらあっても困らない。あの本はどちらかというと、新潮社というよりも晶文社的な本だという気がする。今更ながらだけれど、新潮社らしくない。
 この本はというか、編集者の坪内祐三が、だろうけれど、伊丹十三が好きで、この号では、かつて並木通りの並木座の近くにあった洋品店「チロル」の旦那がインタビューに答えている。この記事の時点では自由が丘の「チロル」となっている。伊丹十三は「チロル」の上に事務所をもっていたんだそうだけれど、この頃の伊丹十三(当時はまだ一三)の事務所ってなんだ?
 和田誠のインタビューがあるかと思うと、永井一正に、亀倉雄策についてインタビューしているというのはちょっと意外だよねぇ。この頃の亀倉雄策といったら、2年後の東京オリンピックのポスターで超有名になっている時期だろうなぁ。このころは後年になってこのおっさんに直接逢うことになるとはとても想像できなかったなぁ。いやいや、逢うったって、30数年前に仕事で、当時平河町にあった大先生の事務所へおたずねして、ご意見を伺うというだけのことで、それっきり。向こうはなんだ、この小僧は?くらいのもんだっただろう。向こうはもう散々勲章を受けているくらいの大先生だったわけで、3年後には文化功労賞だったんだから、おずおずとお伺いしなくちゃいけなかったんだろう。けれど、こっちも相当に尖っていたからなぁ。オリンピックのポスターがなんぼのもんだよ、くらいに思っていた。しかもその時もっていったデザインが永井一正作ときたもんだ。「永井君が作ったんだろ!?」と放り出すようにいっていたっけ。

 こうして古い雑誌は昔のことをあれやこれやと揺さぶってくれるので、そんな古い世界に浸っている。