ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

1940年

 もうすでに日中戦争は4年目に突入していた。とはいえ、日中戦争とは日本は呼んでいない。シナ事変で戦争だとはいっちゃいない。この年は「皇紀2600年」だとして、日本全国で様々なイベントが執り行われていた。神武天皇即位年を元年とする日本独自の年数表記法なるぞ。何しろ戦後の生まれの私はそんなこと、これっぱかりも知りませんでしたけれど、なんだか気がつかないウチに、それを知るようになりましたねぇ。不思議だなぁ。なんでも西暦2021年は皇紀2681年という勘定になるんだそうです。全然ピンときません。しかしこれで真珠湾奇襲攻撃から80年と気がつくことができるという意味では便利かな?
 ところが西暦1940年、昭和15年にはそりゃ大変な騒ぎだったそうです。1935年(昭和10年)10月1日に「紀元二千六百年祝典準備委員会」なるものが組織されて始まり、宮城前広場に式典のために寝殿造の会場(光華殿)が造られて11月10日に厳かにも式典が繰り広げられたそうです。時の首相は近衛文麿。この建物は、小金井の江戸東京たてもの園に保存されているそうです。随分前に一度行ったことがあるけれど、古い交番の想い出はあるけれど、これについては記憶がない。式典の翌年8月にはもう既に今の場所に移築されていたらしい。ま、いってみれば、旧態依然なるわが国の洗脳装置の記憶をとどめましょう、という方針ならばそれはそれでわかるような気がするけれど、宮崎の例の「八紘之基柱」と同じように、どさくさ紛れにファシズムの遺産を残すという意味でも良い勝負と云っても良いかも知れない。
 ところで、この「紀元2600年」についてはほとんど学校で習った記憶がない。ま、私たちの頃は学校で近代史についてはほとんど語られなかった。なによりも、中三や高三の三学期なんて誰も落ち着いて勉強する状態ではなかったものなぁ。高校三年の頃と云ったら、まだ戦争が終わってから20年しか経っていないわけで、戦争の記憶はまだまだ国民の中には、生々しかったはずだから、あまり当時のことが日常生活の中で子どもたちに語られることは少なかったように思う。じゃ、どこで私は紀元2600年を知ったのか。それは当時大々的に創られ唄われたあの歌だろう。レコード各社競作された「奉祝国民歌」である。『肇国(ちょうこく)』『燦欄(さんらん)』なんつう言葉、知りませんでしたねぇ!


国民歌「紀元二千六百年」映像+歌詞付き / Kigen Nisen Roppyaku Nen


 もちろん覚えているのは「きげんはにせぇぇんろっぴゃぁくねぇぇ〜ん」のところだけだけれど、こりゃなんだろうとも思わず、行進曲調の調子の良さに、単純に聞いていたような気がする。
 この歌の替え歌が歌われていたという話は聞いたことがあって、巧い具合に創るもんだと感心し、痛快に思ったことがある。
「金鵄あがって十五銭、栄えある光三十銭、朝日は昇って四十五銭、紀元は二千六百年、あゝ一億の金は減る」何しろ替え歌だから、様々な歌詞が次から次に見つかるのですな。


金鵄上がって十五銭



紀元二千六百年 (替え歌)

もっと驚くことは、今でも平然と海上自衛隊音楽隊なんぞはこの歌を行進曲に編曲されたものを拍手喝采の中で演奏しているんでございますよ。


海上自衛隊舞鶴音楽隊 行進曲  紀元二千六百年【吹奏楽】AD 2600March春の神武祭 橿原神宮

つまり、その世界では、昭和前期に構築された洗脳装置をそのまま、喜んで温存しているわけでしてね、いやぁ、わが国は自由闊達でございますなぁ。あの戦争で騙されて死んでしまった300万を超える人々が知ったら実にお嘆きかと推察する次第でございます。なんであんなところへ連れて行かれて、挙げ句に同じ国民同士がいがみ合う状況の中で、骨と皮になりながら無残にも死んでいった人たちになんと説明したらようございましょうか。こんな状況下で半藤一利氏を失ったことは大きな意味があるのですが、ただただ、ひとつの訃報として流れていってしまうのかと思うと、残念でなりませぬ。

(「愛国行進曲(みよとうかいのそらあけてぇ)」とあんまり区別がつかないんだよなぁ。)