ほぼ足りてまだ欲 その先

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博文くん

私の母方はうちの母が長女で下に妹が一人いただけだ。その妹が婿さんをもらって、子どもは息子が一人だけだった。
父方はうちのオヤジに兄と姉が一人ずつだった。しかし、そっちの従兄弟姉妹とはもう全く付き合いがない。
そのたったひとりの母方の従兄弟は博文といって私よりも4歳上だった。彼が大学浪人をしている時にわが家に暮らしていて、私は高校受験を控えていた。実家では一人っ子でかなりわがままに暮らしていたようだったから、いくら叔母の家、従兄弟の家とはいえ、暮らしにくかっただろう。大学に入ってからは東京に一人暮らしをした。
 子どもの頃、10日間くらい、なんどか母親の実家に滞在した記憶があって、博ちゃんにくっついて歩いていた。近所の大きな神社まで、足を伸ばし、その境内の池にもやってあった舟に乗り込んだり、大人の目のないところで、いわゆる「冒険」もした。
彼が家で漫画を読んでいると、突然大笑いをしながら、その漫画本を放り投げたのを覚えている。
 最後に彼にあったのは、うちの父親の葬式に駆けつけてくれた時のことだろう。1994年の暮に義母が心筋梗塞で他界し、翌年、1995年の正月に葬式を出したのが丁度1月14日だったと思う。寺から帰って実家でやれやれと腰を下ろしたところに、私の姉から電話があり、博文が駅の階段で心筋梗塞で倒れて他界したと知らされた。葬式に新幹線で駆けつけ、帰ろうとしたら、おばさんが「せっかく来たんだから泊まっていってくれ」というのを無碍なくするわけにも行かず、まだ葬式の飾り付けのいくらかが残る中、座敷に布団を敷いて泊まった。翌早朝、地震があってびっくり飛び起きたが、いつもの習慣で、すぐさま玄関の引き戸をあけっぱなしにした。それは良いけれど、脚がそれほど自由じゃなかったおばさんをそのままにしていた。謝りながらテレビを付けると、それが関西淡路大震災だった。それからテレビから目が離せなかった。東京に戻ったのは三日後だった。飛行機で仙台に飛び、仙台から新幹線で東京に入った。あれからもう28年も経っているという。1999年の夏に車で訪ねて以降、博文の奥さんが守ってくれている母の実家に行っていない。

毎年この時期になると、博ちゃんの葬式を思い出しては繰り返し書いている。